忘れて、別に心あって存するごとく、瞳を据えて面《おもて》を合せた。
ちょうどその時、四五十歩を隔てた、夜店の賑かな中を、背後《うしろ》の方で、一声高く、馬の嘶《いなな》くのが、往来の跫音《あしおと》を圧して近々と響いた。
と思うと、滝太郎は、うむ、といって、振向いたが、吃驚《びっくり》したように、
「義作だ、おう、ここに居るぜ。」
「ちょいと、」
「ええ、」
「あれ、」といって振返された手を押えた。指の間には紅《くれない》一滴、見る見る長くなって、手首へ掛けて糸を引いて血が流れた。
「姉《ねえ》さん、」
「どうなすった。」
押魂消《おッたまげ》た立合は、もう他人ではなくなって、驚いて声を懸ける。滝太郎はもう影も見えない。
婦人《おんな》は顔の色も変えないで、切《きれ》で、血を押えながら、姉《ねえ》さん被《かぶり》のまま真仰向《まあおの》けに榎を仰いだ。晴れた空も梢《こずえ》のあたりは尋常《ただ》ならず、木精《こだま》の気勢《けはい》暗々として中空を籠《こ》めて、星の色も物凄《ものすご》い。
「おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝から雫《しずく》が落ちたそうで、指が冷《ひや》りとしたと思ったら、まあ。」
「へい、引掻《ひっか》いたんじゃありませんか。」
「今のが切ったんじゃないんですかい。」
「指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。」
「さればさ。」
「厭《いや》だ、私は、」と薄気味の悪そうな、悄《しょ》げた様子で、婦人《おんな》は人の目に立つばかり身顫《みぶるい》をして黙った。榎の下|寂《せき》として声なし、いずれも顔を見合せたのである。
十三
「何だね、これは。」
「叱《しっ》、」と押えながら、島野紳士のセル地の洋服の肱《ひじ》を取って、――奥を明け広げた夏座敷の灯が漏れて、軒端《のきば》には何の虫か一個《ひとつ》唸《うなり》を立ててはたと打着《ぶつ》かってはまた羽音を響かす、蚊が居ないという裏町、俗にお園小路と称《とな》える、遊廓桜木町の居まわりに在り、夜更けて門涼《かどすずみ》の団扇が招くと、黒板塀の陰から頬被《ほおかぶり》のぬっと出ようという凄《すご》い寸法の処柄、宵の口はかえって寂寞《ひっそり》している。――一軒の格子戸を背後《うしろ》へ退《すさ》った。
こ
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