板戸《いたど》に、地方《いなか》の習慣《ならい》で、蘆《あし》の簾《すだれ》の掛ったのが、破れる、断《き》れる、その上、手の届かぬ何年かの煤《すす》がたまって、相馬内裏《そうまだいり》の古御所《ふるごしょ》めく。
その蔭に、遠い灯《あかり》のちらりとするのを背後《うしろ》にして、お納戸色《なんどいろ》の薄い衣《きぬ》で、ひたと板戸に身を寄せて、今出て行った祖母《としより》の背後影《うしろかげ》を、凝《じっ》と見送る状《さま》に彳《たたず》んだ婦《おんな》がある。
一目見て、幼い織次はこの現世《うつしよ》にない姿を見ながら、驚きもせず、しかし、とぼんとして小さく立った。
その小児《こども》に振向《ふりむ》けた、真白な気高い顔が、雪のように、颯《さっ》と消える、とキリキリキリ――と台所を六角《ろっかく》に井桁《いげた》で仕切った、内井戸《うちいど》の轆轤《ろくろ》が鳴った。が、すぐに、かたりと小皿が響いた。
流《ながし》の処《ところ》に、浅葱《あさぎ》の手絡《てがら》が、時ならず、雲から射す、濃い月影のようにちらちらして、黒髪《くろかみ》のおくれ毛がはらはらとかかる、鼻筋のすっと通《とお》った横顔が仄見《ほのみ》えて、白い拭布《ふきん》がひらりと動いた。
「織坊《おりぼう》。」
と父が呼んだ。
「あい。」
ばたばたと駈出して、その時まで同じ処《ところ》に、画《え》に描《か》いたように静《じっ》として動かなかった草色《くさいろ》の半纏《はんてん》に搦附《からみつ》く。
「ああ、阿母《おっか》のような返事をする。肖然《そっくり》だ、今の声が。」
と膝へ抱く。胸に附着《くッつ》き、
「台所に母様《おっかさん》が。」
「ええ!」と父親が膝を立てた。
「祖母《おばあ》さんの手伝いして。」
親父は、そのまま緊乎《しっか》と抱いて、
「織坊、本を買って、何を習う。」
「ああ、物理書を皆《みんな》読むとね、母様《おっかさん》のいる処《ところ》が分るって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの、台所にいるんだもの、もう買わなくとも可《い》い。……おいでよ、父上《おとっさん》。」
と手を引張《ひっぱ》ると、猶予《ためら》いながら、とぼとぼと畳に空足《からあし》を踏んで、板の間《ま》へ出た。
その跫音《あしおと》より、鼠の駈ける音が激しく、棕櫚《しゅろ》の骨がばさりと覗《のぞ》いて、其処《そこ》に、手絡《てがら》の影もない。
織次はわっと泣出した。
父は立ちながら背《せな》を擦《さす》って、わなわな震えた。
雨の音が颯《さっ》と高い。
「おお、冷《つめて》え、本降《ほんぶり》、本降。」
と高調子《たかぢょうし》で門を入ったのが、此処《ここ》に差向《さしむか》ったこの、平吉の平《へい》さんであった。
傘《からかさ》をがさりと掛けて、提灯《ちょうちん》をふっと消す、と蝋燭《ろうそく》の匂《におい》が立って、家中《うちじゅう》仏壇の薫《かおり》がした。
「呀《や》! 世話場《せわば》だね、どうなすった、父《とっ》さん。お祖母《としより》は、何処《どこ》へ。」
で、父が一伍一什《いちぶしじゅう》を話すと――
「立替《たてか》えましょう、可惜《あったら》ものを。七貫や八貫で手離すには当りゃせん。本屋じゃ幾干《いくら》に買うか知れないけれど、差当《さしあた》り、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処《ここ》にあれば可《い》い訳《わけ》だ、と先ず言った訳《わけ》だ。先方《さき》の買直《かいね》がぎりぎりの処《ところ》なら買戻《かいもど》すとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさしてお置きなさい。……そらそら、はじめたはじめた、お株が出たぜえ。こんな事に済まぬも義理もあったものかね、ええ、君。」
と太《ひど》く書生ぶって、
「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、唯《ただ》立替えさして気が済まない、と言うんなら、その金子《かね》の出来るまで、僕が預かって置けば可《よ》うがしょう。さ、それで極《きま》った。……一ツ莞爾《にっこり》としてくれ給え。君、しかし何んだね、これにつけても、小児《こども》に学問なんぞさせねえが可《い》いじゃないかね。くだらない、もうこれ織公《おりこう》も十一、吹※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1−93−84]《ふいご》ばたばたは勤まるだ。二銭三銭の足《たし》にはなる。ソレ直ぐに鹿尾菜《ひじき》の代《だい》が浮いて出ようというものさ。……実の処《ところ》、僕が小指《レコ》の姉なんぞも、此家《ここ》へ一人|二度目妻《にどめの》を世話しようといってますがね、お互にこの職人が小児《こども》に本を買って遣《や》る苦労をするようじゃ、末《すえ》を見込んで嫁入《きて》がないッさ。ね、祖母《としより》が、孫と君の世話をして、この寒空《さむぞら》に水仕事だ。
因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。
――その姉と言うのが、次室《つぎのま》の長火鉢の処《ところ》に来ている。――
九
そこへ、祖母《としより》が帰って来たが、何んにも言わず、平吉に挨拶《あいさつ》もせぬ先に、
「さあ」と言って、本を出す。
織次は飛んで獅子の座へ直《なお》った勢《いきおい》。上から新撰に飛付《とびつ》く、と突《つん》のめったようになって見た。黒表紙には綾《あや》があって、艶《つや》があって、真黒な胡蝶《ちょうちょう》の天鵝絨《びろうど》の羽のように美しく……一枚開くと、きらきらと字が光って、細流《せせらぎ》のように動いて、何がなしに、言いようのない強い薫《かおり》が芬《ぷん》として、目と口に浸込《しみこ》んで、中に描《か》いた器械の図などは、ずッしり鉄《くろがね》の楯《たて》のように洋燈《ランプ》の前に顕《あらわ》れ出《い》でて、絵の硝子《がらす》が燐《ばっ》と光った。
さて、祖母《としより》の話では、古本屋は、あの錦絵《にしきえ》を五十銭から直《ね》を付け出して、しまいに七十五銭よりは出せぬと言う。きなかもその上はつかぬと断《ことわ》る。欲《ほし》い物理書は八十銭。何でも直ぐに買って帰って、孫が喜ぶ顔を見たさに、思案に余って、店端《みせさき》に腰を掛けて、時雨《しぐれ》に白髪《しらが》を濡らしていると、其処《そこ》の亭主が、それでは婆さんこうしなよ。此処《ここ》にそれ、はじめの一冊だけ、ちょっと表紙に竹箆《たけべら》の折返しの跡をつけた、古本の出物《でもの》がある。定価から五銭引いて、丁《ちょう》どに鍔《つば》を合わせて置く。で、孫に持って行って遣《や》るが可《い》い、と捌《さば》きを付けた。国貞《くにさだ》の画が雑《ざっ》と二百枚、辛《かろ》うじてこの四冊の、しかも古本と代ったのである。
平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。
「織坊《おりぼう》、母様《おっかさん》の記念《かたみ》だ。お祖母《ばあ》さんと一緒に行って、今度はお前が、背負《しょ》って来い。」
「あい。」
とその四冊を持って立つと、
「路《みち》が悪い、途中で落して汚すとならぬ、一冊だけ持って来さっしゃい、また抱いて寝るのじゃの。」
と祖母《としより》も莞爾《にっこり》して、嫁の記念《かたみ》を取返す、二度目の外出《そとで》はいそいそするのに、手を曳《ひ》かれて、キチンと小口《こぐち》を揃えて置いた、あと三冊の兄弟を、父の膝許《ひざもと》に残しながら、出しなに、台所を竊《そっ》と覗《のぞ》くと、灯《ともしび》は棕櫚《しゅろ》の葉風《はかぜ》に自《おのず》から消えたと覚《おぼ》しく……真の暗がりに、もう何んにも見えなかった。
雨は小止《こやみ》で。
織次は夜道をただ、夢中で本の香《か》を嗅《か》いで歩行《ある》いた。
古本屋は、今日この平吉の家《うち》に来る時通った、確か、あの湯屋《ゆや》から四、五軒手前にあったと思う。四辻《よつつじ》へ行《ゆ》く時分に、祖母《としより》が破傘《やぶれがさ》をすぼめると、蒼《あお》く光って、蓋《ふた》を払ったように月が出る。山の形は骨ばかり白く澄《す》んで、兎《うさぎ》のような雲が走る。
織次は偶《ふ》と幻に見た、夜店の頃の銀河の上の婦《おんな》を思って、先刻《さっき》とぼとぼと地獄へ追遣《おいや》られた大勢の姉様《あねさん》は、まさに救われてその通り天にのぼる、と心が勇む。
一足先へ駈出して、見覚えた、古本屋の戸へ附着《くッつ》いたが、店も大戸《おおど》も閉っていた。寒さは寒し、雨は降ったり、町は寂《しん》として何処《どこ》にも灯《ひ》の影は見えぬ。
「もう寝たかの。」
と祖母《としより》がせかせかござって、
「御許《ごゆる》さい、御許さい。」
と遠慮らしく店頭《みせさき》の戸を敲《たた》く。
天窓《あまど》の上でガッタリ音して、
「何んじゃ。」
と言う太い声。箱のような仕切戸《しきりど》から、眉の迫った、頬の膨《ふく》れた、への字の口して、小鼻の筋から頤《おとがい》へかけて、べたりと薄髯《うすひげ》の生えた、四角な顔を出したのは古本屋の亭主で。……この顔と、その時の口惜《くやし》さを、織次は如何《いか》にしても忘れられぬ。
絵はもう人に売った、と言った。
見知越《みしりごし》の仁《じん》ならば、知らせて欲《ほし》い、何処《そこ》へ行って頼みたい、と祖母《としより》が言うと、ちょいちょい見懸ける男だが、この土地のものではねえの。越後《えちご》へ行《ゆ》く飛脚だによって、脚《あし》が疾《はや》い。今頃はもう二股《ふたまた》を半分越したろう、と小窓に頬杖《ほおづえ》を支《つ》いて嘲笑《あざわら》った。
縁《えん》の早い、売口《うれくち》の美《い》い別嬪《べっぴん》の画《え》であった。主《ぬし》が帰って間《ま》もない、店の燈許《あかりもと》へ、あの縮緬着物《ちりめんぎもの》を散らかして、扱帯《しごき》も、襟《えり》も引《ひっ》さらげて見ている処《ところ》へ、三度笠《さんどがさ》を横っちょで、てしま茣蓙《ござ》、脚絆穿《きゃはんばき》、草鞋《わらじ》でさっさっと遣《や》って来た、足の高い大男が通りすがりに、じろりと見て、いきなり価《ね》をつけて、ずばりと買って、濡《ぬ》らしちゃならぬと腰づけに、きりりと、上帯《うわおび》を結び添えて、雨の中をすたすたと行方《ゆくえ》知れずよ。……
「分ったか、お婆々《ばば》。」と言った。
十
断念《あきら》めかねて、祖母《としより》が何か二ツ三ツ口を利くと、挙句《あげく》の果《はて》が、
「老耄婆《もうろくばばあ》め、帰れ。」
と言って、ゴトンと閉めた。
祖母《としより》が、ト目を擦《こす》った帰途《かえりみち》。本を持った織次の手は、氷のように冷めたかった。そこで、小さな懐中《ふところ》へ小口《こぐち》を半分|差込《さしこ》んで、圧《おさ》えるように頤《おとがい》をつけて、悄然《しょんぼり》とすると、辻《つじ》の浪花節《なにわぶし》が語った……
「姫松《ひめまつ》殿がエ。」
が暗《やみ》から聞える。――織次は、飛脚に買去《かいさ》られたと言う大勢の姉様《あねさん》が、ぶらぶらと甘干《あまぼし》の柿のように、樹の枝に吊下《つりさ》げられて、上《あ》げつ下《お》ろしつ、二股坂《ふたまたざか》で苛《さいな》まれるのを、目のあたりに見るように思った。
とやっぱり芬《ぷん》とする懐中《ふところ》の物理書が、その途端に、松葉の燻《いぶ》る臭気《におい》がし出した。
固《もと》より口実、狐が化けた飛脚でのうて、今時《いまどき》町を通るものか。足許《あしもと》を見て買倒《かいたお》した、十倍百倍の儲《もうけ》が惜《おし》さに、貉《むじな》が勝手なことを吐《ほざ》く。引受《ひきう》けたり平吉が。
で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして買戻《かいもど》してくれた錦絵《にしきえ》である。
が、その後
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