《のち》、折を見て、父が在世《ざいせ》の頃も、その話が出たし、織次も後《のち》に東京から音信《たより》をして、引取《ひきと》ろう、引取ろうと懸合《かけあ》うけれども、ちるの、びるので纏《まと》まらず、追っかけて追詰《せりつ》めれば、片音信《かただより》になって埒《らち》が明かぬ。
 今日こそ何んでも、という意気込《いきご》みであった。
 さて、その事を話し出すと、それ、案の定、天井睨《てんじょうにら》みの上睡《うわねむ》りで、ト先ず空惚《そらとぼ》けて、漸《やっ》と気が付いた顔色《がんしょく》で、
「はあ、あの江戸絵《えどえ》かね、十六、七年、やがて二昔《ふたむかし》、久しいもんでさ、あったっけかな。」
 と聞きも敢《あ》えず……
「ないはずはないじゃないか、あんなに頼んで置いたんだから。……」と何故《なぜ》かこの絵が、いわれある、活ける恋人の如く、容易《たやす》くは我が手に入《い》らない因縁《いんねん》のように、寝覚めにも懸念して、此家《ここ》へ入るのに肩を聳《そび》やかしたほど、平吉がかかる態度に、織次は早や躁立《いらだ》ち焦《あせ》る。
 平吉は他処事《よそごと》のように仰向《あおむ》いて、
「なあ、これえ。」
 と戸棚の前で、膳ごしらえする女房を頤《あご》で呼んで、
「知るまいな。忘れたろうよ、な、な、お前も、あの、江戸絵さ、蔵の中にあったっけか。」
「唯《はい》、ござりえす、出しますかえ。」と女房は判然《はっきり》言った。
「難有《ありがと》う、お琴《こと》さん。」
 とはじめて親しげに名を言って、凝《じっ》と振向くと、浪《なみ》の浅葱《あさぎ》の暖簾越《のれんごし》に、また颯《さっ》と顔を赧《あか》らめた処《ところ》は、どうやら、あの錦絵の中の、その、どの一人かに俤《おもかげ》が幽《かすか》に似通《にかよ》う。……
「お一つ。」
 とそこへ膳を直《なお》して銚子《ちょうし》を取った。変れば変るもので、まだ、七八《ななや》ツ九《ここの》ツばかり、母が存生《ぞんしょう》の頃の雛祭《ひなまつり》には、緋《ひ》の毛氈《もうせん》を掛けた桃桜《ももさくら》の壇の前に、小さな蒔絵《まきえ》の膳に並んで、この猪口《ちょこ》ほどな塗椀《ぬりわん》で、一緒に蜆《しじみ》の汁《つゆ》を替えた時は、この娘が、練物《ねりもの》のような顔のほかは、着くるんだ花の友染《ゆうぜん》で、その時分から円《まる》い背を、些《ち》と背屈《せこご》みに座る癖《くせ》で、今もその通りなのが、こうまで変った。
 平吉は既《も》う五十の上、女房はまだ二十《はたち》の上を、二ツか、多くて三ツであろう。この姉だった平吉の前《ぜん》の家内が死んだあとを、十四、五の、まだ鳥も宿らぬ花が、夜半《よわ》の嵐に散らされた。はじめ孫とも見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、こうした処《ところ》では肖《ふさわ》しくなって、女房ぶりも哀《あわれ》に見える。
 これも飛脚に攫《さら》われて、平吉の手に捕われた、一枚の絵であろう。
 いや、何んにつけても、早く、とまた屹《きっ》と居直ると、女房の返事に、苦い顔して、横睨《よこにら》みをした平吉が、
「だが、何だぜ、これえ、何それ、何、あの貸したきりになってるはずだぜ。催促はするがね……それ、な、これえ。まだ、あのまま返って来ないよ、そうだよ。ああ、そうだよ。」
 と幾度《いくだび》も一人で合点《のみこ》み、
「ええ、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、近所合壁《きんじょがっぺき》、親類中の評判で、平吉が許《とこ》へ行ったら、大黒柱より江戸絵を見い、という騒ぎで、来るほどに、集《たか》るほどに、丁《とん》と片時《かたとき》も落着いていた験《ためし》はがあせん。」
 と蔵の中に、何とやらと言った、その口の下……
「手前《てまえ》じゃ、まあ、持物《もちもの》と言ったようなものの、言わばね、織さん、何んですわえ。それ、貴下《あなた》から預かっているも同然な品なんだから、出入れには、自然、指垢《ゆびあか》、手擦《てずれ》、つい汚れがちにもなりやしょうで、見せぬと言えば喧嘩《けんか》になる……弱るの何んの。そこで先ず、貸したように、預けたように、余所《よそ》の蔵に秘《しま》ってありますわ。ところが、それ。」
 と、これも気色《けしき》ばんだ女房の顔を、兀上《はげあが》った額越《ひたいごし》に、ト睨《や》って、
「その蔵持《くらもち》の家《うち》には、手前が何でさ、……些《ち》とその銭式《レコしき》の不義理があって、当分顔の出せない、といったような訳《わけ》で、いずれ、取って来ます。取って来るには取って来ますが、ついちょっと、ソレ銭式《レコしき》の事ですからな。
 それに、織さん、近頃じゃ価《ね》が出ましたっさ。錦絵《にしきえ》は……唯《たっ》た一枚が、雑とあの当時の二百枚だってね、大事のものです。貴下《あなた》にも大事のもので、またこっちも大事のものでさ。価《ね》は惜《おし》まぬ、ね、価《ね》は惜まぬから手放さないか、と何度《なんたび》も言われますがね、売るものですか。そりゃ売らない。憚《はばか》りながら平吉売らないね。預りものだ、手放して可《い》いものですかい。
 けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めし飲《あが》れ、熱い処《ところ》を。ね、御緩《ごゆっく》り。さあ、これえ、お焼物《やきもの》がない。ええ、間抜けな、ぬたばかり。これえ、御酒《ごしゅ》に尾頭《おかしら》は附物《つきもの》だわ。ぬたばかり、いやぬたぬたとぬたった婦《おんな》だ。へへへへへ、鰯《いわし》を焼きな、気は心よ、な、鰯をよ。」
 と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉の額《ひたい》をぬすみ見る女房の様《さま》は、湯船《ゆぶね》へ横飛びにざぶんと入る、あの見世物の婦《おんな》らしい。これも平吉に買われたために、姿まで変ったのであろう。
 坐り直って、
「あなたえ。」
 と怨《うら》めしそうな、情《なさけ》ない顔をする。
 ぎょろりと目を剥《む》き、険《けん》な面《つら》で、
「これえ。」と言った。
 が、鰯《いわし》の催促をしたようで。
「今、焼いとるんや。」
 と隣室《となり》の茶の室《ま》で、女房の、その、上の姉が皺《しな》びた声。
「なんまいだ。」
 と婆《ばば》が唱《とな》える。……これが――「姫松殿《ひめまつどの》がえ。」と耳を貫く。……称名《しょうみょう》の中から、じりじりと脂肪《あぶら》の煮える響《ひびき》がして、腥《なまぐさ》いのが、むらむらと来た。
 この臭気《しゅうき》が、偶《ふ》と、あの黒表紙に肖然《そっくり》だと思った。
 とそれならぬ、姉様《あねさん》が、山賊の手に松葉燻《まつばいぶ》しの、乱るる、揺《ゆら》めく、黒髪《くろかみ》までが目前《めさき》にちらつく。
 織次は激《はげし》くいった。
「平吉、金子《かね》でつく話はつけよう。鰯《いわし》は待て。」



底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
   1999(平成11)年3月15日第19刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十二卷」岩波書店
   1942(昭和17)年4月初版発行
初出:「太陽」
   1910(明治10)年1月号
※底本の親本は総ルビ。底本作成時にルビが取捨選択されています。
入力:今中一時
校正:青木直子
1999年12月16日公開
2005年12月2日修正
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