してねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜で鰯《いわし》がとれますよ。」と縁《えん》へはみ出るくらい端近《はしぢか》に坐ると一緒に、其処《そこ》にあった塵《ちり》を拾って、ト首を捻《ひね》って、土間に棄てた、その手をぐいと掴《つか》んで、指を揉《も》み、
「何時《いつ》、当地《こっち》へ。」
「二、三日前さ。」
「雑《ざっ》と十四、五年になりますな。」
「早いものだね。」
「早いにも、織さん、私《わっし》なんざもう御覧の通り爺《じじい》になりましたよ。これじゃ途中で擦違《すれちが》ったぐらいでは、ちょっとお分りになりますまい。」
「否《いや》、些《ちっ》とも変らないね、相《あい》かわらず意気《いき》な人さ。」
「これはしたり!」
 と天井抜けに、突出《つきだ》す腕《かいな》で額《ひたい》を叩《たた》いて、
「はっ、恐入《おそれい》ったね。東京|仕込《じこみ》のお世辞は強《きつ》い。人《ひと》、可加減《いいかげん》に願いますぜ。」
 と前垂《まえだれ》を横に刎《は》ねて、肱《ひじ》を突張《つッぱ》り、ぴたりと膝に手を支《つ》いて向直《むきなお》る。
「何、串戯《じょうだん》なものか。」と言う時、織次は巻莨《まきたばこ》を火鉢にさして俯向《うつむ》いて莞爾《にっこり》した。面色《おももち》は凛《りん》としながら優《やさ》しかった。
「粗末なお茶でございます、直ぐに、あの、入《いれ》かえますけれど、お一《ひと》ツ。」
 と女房が、茶の室《ま》から、半身を摺《ず》らして出た。
「これえ、私《わっし》が事を意気な男だとお言いなさるぜ、御馳走《ごちそう》をしなけりゃ不可《いか》んね。」
「あれ、もし、お膝に。」と、うっかり平吉の言う事も聞落《ききおと》したらしかったのが、織次が膝に落ちた吸殻《すいがら》の灰を弾《はじ》いて、はっとしたように瞼《まぶた》を染めた。

       六

「さて、どうも更《あらたま》りましては、何んとも申訳《もうしわけ》のない御無沙汰《ごぶさた》で。否《いえ》、もう、そりゃ実に、烏《からす》の鳴かぬ日はあっても、お噂《うわさ》をしない日はありませんが、なあ、これえ。」
「ええ。」と言った女房の顔色の寂《さび》しいので、烏ばかり鳴くのが分る。が、別に織次は噂をされようとも思わなかった。
 平吉は畳《たた》み掛《か》け、
「牛は牛づれとか言うんでえしょう。手前が何しますにつけて、これもまた、学校に縁遠《えんどお》い方だったものでえすから、暑さ寒さの御見舞だけと申すのが、書けないものには、飛んだどうも、実印《じついん》を捺《お》しますより、事も大層になります処《ところ》から、何とも申訳《もうしわけ》がございやせん。
 何しろ、まあ、御緩《ごゆる》りなすって、いずれ今晩は手前どもへ御一泊下さいましょうで。」
 と膝をすっと手先で撫《な》でて、取澄《とりす》ました風をしたのは、それに極《きま》った、という体《てい》を、仕方で見せたものである。 
「串戯《じょうだん》じゃない。」と余りその見透《みえす》いた世辞の苦々《にがにが》しさに、織次は我知らず打棄《うっちゃ》るように言った。些《ち》とその言《ことば》が激しかったか、
「え。」と、聞直《ききなお》すようにしたが、忽《たちま》ち唇の薄笑《うすわらい》。
「ははあ、御同伴《おつれ》の奥さんがお待兼《まちか》ねで。」
「串戯じゃない。」
 と今度は穏《おだや》かに微笑《ほほえ》んで、
「そんなものがあるものかね。」
「そんなものとは?」
「貴下《あなた》、まだ奥様《おくさん》はお持ちなさりませんの。」
 と女房、胸を前へ、手を畳にす。
 織次は巻莨《まきたばこ》を、ぐいと、さし捨てて、
「持つもんですか。」
「織さん。」
 と平吉は薄く刈揃《かりそろ》えた頭を掉《ふ》って、目を据《す》えた。
「まだ、貴下《あなた》、そんな事を言っていますね。持つものか! なんて貴下《あなた》、一生持たないでどうなさる。……また、こりゃお亡くなんなすった父様《おとっさん》に代《かわ》って、一説法《ひとせっぽう》せにゃならん。例の晩酌《ばんしゃく》の時と言うとはじまって、貴下《あなた》が殊《こと》の外《ほか》弱らせられたね。あれを一つ遣《や》りやしょう。」
 と片手で小膝をポンと敲《たた》き、
「飲みながらが可《い》い、召飯《めしあが》りながら聴聞《ちょうもん》をなさい。これえ、何を、お銚子《ちょうし》を早く。」
「唯《はい》、もう燗《つ》けてござりえす。」と女房が腰を浮かす、その裾端折《すそはしょり》で。
 織次は、酔った勢《いきおい》で、とも思う事があったので、黙っていた。
「ぬたをの……今、私《わっし》が擂鉢《すりばち》に拵《こしら》えて置いた、あれを、鉢に入れて、小皿を二つ、可《い》いか、手綺麗《てぎれい》に装《よそ》わないと食えぬ奴さね。……もう不断《ふだん》、本場で旨《うま》いものを食《あが》りつけてるから、田舎料理なんぞお口には合わん、何にも入《い》らない、ああ、入《い》らないとも。」
 と独《ひと》りで極《き》めて、もじつく女房を台所へ追立《おった》てながら、
「織さん、鰯《いわし》のぬただ、こりゃ御存じの通り、他国にはない味です。これえ、早くしなよ。」
 ああ、しばらく。座にその鰯《いわし》の臭気のない内《うち》、言わねばならぬ事がある……
「あの、平さん。」
 と織次は若々しいもの言いした。
「此家《こちら》に何だね、僕ン許《とこ》のを買ってもらった、錦絵《にしきえ》があったっけね。」
「へい、錦絵。」と、さも年久《としひさ》しい昔を見るように、瞳《ひとみ》を凝《じっ》と上へあげる。
「内《うち》で困って、……今でも貧乏は同一《おんなじ》だが。」
 と織次は屹《きっ》と腕を拱《く》んだ。
「私が学校で要《い》る教科書が買えなかったので、親仁《おやじ》が思切《おもいき》って、阿母《おふくろ》の記念《かたみ》の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻《かいもど》して、蔵《しま》っといてくれた。その絵の事だよ。」
 時雨《しぐれ》の雲の暗い晩、寂しい水菜《みずな》で夕餉《ゆうげ》が済む、と箸《はし》も下に置かぬ前《さき》から、織次はどうしても持たねばならない、と言って強請《ねだ》った、新撰物理書《しんせんぶつりしょ》という四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へ通《かよ》われぬと言うのではない。科目は教師が黒板《ボオルド》に書いて教授するのを、筆記帳へ書取《かきと》って、事は足りたのであるが、皆《みんな》が持ってるから欲しくてならぬ。定価がその時|金《きん》八十銭と、覚えている。

       七

 親父はその晩、一合の酒も飲まないで、燈火《ともしび》の赤黒い、火屋《ほや》の亀裂《ひび》に紙を貼った、笠の煤《すす》けた洋燈《ランプ》の下《もと》に、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場《さいくば》に立ちもせず、袖《そで》に継《つぎ》のあたった、黒のごろの半襟《はんえり》の破れた、千草色《ちぐさいろ》の半纏《はんてん》の片手を懐《ふところ》に、膝を立てて、それへ頬杖《ほおづえ》ついて、面長《おもなが》な思案顔を重そうに支《ささ》えて黙然《だんまり》。
 ちょっと取着端《とりつきは》がないから、
「だって、欲《ほし》いんだもの。」と言い棄てに、ちょこちょこと板の間《ま》を伝って、だだッ広い、寒い台所へ行《ゆ》く、と向うの隅《すみ》に、霜《しも》が見える……祖母《おばあ》さんが頭巾《ずきん》もなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちと冷《つめた》い音で洗ってござる。
「買っとくれよ、よう。」
 と聞分《ききわ》けもなく織次がその袂《たもと》にぶら下った。流《ながし》は高い。走りもとの破れた芥箱《ごみばこ》の上下《うえした》を、ちょろちょろと鼠が走って、豆洋燈《まめランプ》が蜘蛛《くも》の巣の中に茫《ぼう》とある……
「よう、買っとくれよ、お弁当は梅干《うめぼし》で可《い》いからさ。」
 祖母《としより》は、顔を見て、しばらく黙って、
「おお、どうにかして進ぜよう。」
 と洗いさした茶碗をそのまま、前垂《まえだれ》で手を拭《ふ》き拭き、氷のような板の間を、店の畳へ引返《ひきかえ》して、火鉢の前へ、力なげに膝をついて、背後《うしろ》向きに、まだ俯向《うつむ》いたなりの親父を見向いて、
「の、そうさっしゃいよ。」
「なるほど。」
「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」
「それでは、母親《おっかさん》、御苦労でございます。」
「何んの、お前。」
 と納戸《なんど》へ入って、戸棚から持出した風呂敷包《ふろしきづつみ》が、その錦絵《にしきえ》で、国貞《くにさだ》の画が二百余枚、虫干《むしぼし》の時、雛祭《ひなまつり》、秋の長夜《ながよ》のおりおりごとに、馴染《なじみ》の姉様《あねさま》三千で、下谷《したや》の伊達者《だてしゃ》、深川《ふかがわ》の婀娜者《あだもの》が沢山《たんと》いる。
 祖母《おばあ》さんは下に置いて、
「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。
「いや、見ますまい。」
 と顔を背向《そむ》ける。
 祖母《としより》は解《ほど》き掛《か》けた結目《むすびめ》を、そのまま結《ゆわ》えて、ちょいと襟《えり》を引合わせた。細い半襟《はんえり》の半纏《はんてん》の袖《そで》の下に抱《かか》えて、店のはずれを板の間から、土間へ下りようとして、暗い処《ところ》で、
「可哀《かわい》やの、姉様《あねさま》たち。私《わし》が許《もと》を離れてもの、蜘蛛男《くもおとこ》に買われさっしゃるな、二股坂《ふたまたざか》へ行《ゆ》くまいぞ。」
 と小さな声して言聞《いいき》かせた。織次は小児心《こどもごころ》にも、その絵を売って金子《かね》に代えるのである、と思った。……顔馴染《かおなじみ》の濃い紅《くれない》、薄紫《うすむらさき》、雪の膚《はだえ》の姉様《あねさま》たちが、この暗夜《やみのよ》を、すっと門《かど》を出る、……と偶《ふ》と寂しくなった。が、紅《べに》、白粉《おしろい》が何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょい、と躍《おど》った。
「待ってござい、織《おり》や。」
 ごろごろと静かな枢戸《くるるど》の音。
 台所を、どどんがたがた、鼠が荒野《あれの》と駈廻《かけまわ》る。
 と祖母《としより》が軒先から引返して、番傘《ばんがさ》を持って出直《でなお》す時、
「あのう、台所の燈《あかり》を消しといてくらっしゃいよ、の。」
 で、ガタリと門《かど》の戸がしまった。
 コトコトと下駄《げた》の音して、何処《どこ》まで行《ゆ》くぞ、時雨《しぐれ》の脚《あし》が颯《さっ》と通る。あわれ、祖母《としより》に導かれて、振袖《ふりそで》が、詰袖《つめそで》が、褄《つま》を取ったの、裳《もすそ》を引いたの、鼈甲《べっこう》の櫛《くし》の照々《てらてら》する、銀の簪《かんざし》の揺々《ゆらゆら》するのが、真白な脛《はぎ》も露わに、友染《ゆうぜん》の花の幻めいて、雨具もなしに、びしゃびしゃと、跣足《はだし》で田舎の、山近《やまぢか》な町の暗夜《やみよ》を辿《たど》る風情《ふぜい》が、雨戸の破目《やぶれめ》を朦朧《もうろう》として透《す》いて見えた。
 それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼い眼《まなこ》を眩《くら》まして、その美しい姉様たちを、ぼったて、ぼったて、叩き出した、黒表紙のその状《さま》を、後《のち》に思えば鬼であろう。
 台所の灯《ともしび》は、遙《はるか》に奥山家《おくやまが》の孤家《ひとつや》の如くに点《とも》れている。
 トその壁の上を窓から覗《のぞ》いて、風にも雨にも、ばさばさと髪を揺《ゆす》って、団扇《うちわ》の骨ばかりな顔を出す……隣の空地の棕櫚《しゅろ》の樹が、その夜は妙に寂《しん》として気勢《けはい》も聞えぬ。
 鼠も寂莫《ひっそり》と音を潜《ひそ》めた。……

       八

 台所と、この上框《あがりがまち》とを隔ての
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