が聞える。……
立淀《たちよど》んだ織次の耳には、それが二股から遠く伝わる、ものの谺《こだま》のように聞えた。織次の祖母《おおば》は、見世物のその侏儒《いっすんぼし》の婦《おんな》を教えて、
「あの娘《こ》たちはの、蜘蛛庄屋《くもしょうや》にかどわかされて、その※[#「女+必」、第4水準2−5−45]《こしもと》になったいの。」
と昔語りに話して聞かせた所為《せい》であろう。ああ、薄曇りの空低く、見通しの町は浮上《うきあが》ったように見る目に浅いが、故郷《ふるさと》の山は深い。
また山と言えば思出す、この町の賑《にぎや》かな店々の赫《かっ》と明るい果《はて》を、縦筋《たてすじ》に暗く劃《くぎ》った一条《ひとすじ》の路《みち》を隔てて、数百《すひゃく》の燈火《ともしび》の織目《おりめ》から抜出《ぬけだ》したような薄茫乎《うすぼんやり》として灰色の隈《くま》が暗夜《やみ》に漾《ただよ》う、まばらな人立《ひとだち》を前に控えて、大手前《おおてまえ》の土塀《どべい》の隅《すみ》に、足代板《あじろいた》の高座に乗った、さいもん語りのデロレン坊主、但し長い頭髪《かみのけ》を額《ひたい》に振分《ふりわ》け、ごろごろと錫《しゃく》を鳴らしつつ、塩辛声《しおからごえ》して、
「……姫松《ひめまつ》どのはエ」と、大宅太郎光国《おおやのたろうみつくに》の恋女房が、滝夜叉姫《たきやしゃひめ》の山寨《さんさい》に捕えられて、小賊《しょうぞく》どもの手に松葉燻《まつばいぶし》となる処《ところ》――樹の枝へ釣上げられ、後手《うしろで》の肱《ひじ》を空《そら》に、反返《そりかえ》る髪を倒《さかさ》に落して、ヒイヒイと咽《むせ》んで泣く。やがて夫の光国が来合わせて助けるというのが、明晩、とあったが、翌晩《あくるばん》もそのままで、次第に姫松の声が渇《か》れる。
「我が夫《つま》いのう、光国どの、助けて給《た》べ。」とばかりで、この武者修業の、足の遅さ。
三晩目《みばんめ》に、漸《やっ》とこさと山の麓《ふもと》へ着いたばかり。
織次は、小児心《こどもごころ》にも朝から気になって、蚊帳《かや》の中でも髣髴《ほうふつ》と蚊燻《かいぶ》しの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、汚《きたな》い弟子が古浴衣《ふるゆかた》の膝切《ひざぎり》な奴を、胸の処《ところ》でだらりとした拳固《げんこ》の矢蔵《やぞう》、片手をぬい、と出し、人の顋《あご》をしゃくうような手つきで、銭を強請《ねだ》る、爪の黒い掌《てのひら》へ持っていただけの小遣《こづかい》を載せると、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったが、黄色い歯でニヤリとして、身体《からだ》を撫《な》でようとしたので、衝《つ》と極《きまり》が悪く退《すさ》った頸《うなじ》へ、大粒な雨がポツリと来た。
忽《たちま》ち大驟雨《おおゆうだち》となったので、蒼くなって駈出《かけだ》して帰ったが、家《うち》までは七、八町、その、びしょ濡れさ加減《かげん》思うべしで。
あと二夜《ふたよ》ばかりは、空模様を見て親たちが出さなかった。
さて晴れれば晴れるものかな。磨出《みがきだ》した良《い》い月夜に、駒《こま》の手綱を切放《きりはな》されたように飛出《とびだ》して行った時は、もうデロレンの高座は、消えたか、と跡もなく、後幕《うしろまく》一重《ひとえ》引いた、あたりの土塀の破目《われめ》へ、白々《しろじろ》と月が射した。
茫《ぼっ》となって、辻に立って、前夜の雨を怨《うら》めしく、空を仰《あお》ぐ、と皎々《こうこう》として澄渡《すみわた》って、銀河一帯、近い山の端《は》から玉《たま》の橋を町家《まちや》の屋根へ投げ懸ける。その上へ、真白《まっしろ》な形で、瑠璃《るり》色の透《す》くのに薄い黄金《きん》の輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のような女の姿が、すっと立って、するすると月の前を歩行《ある》いて消えた。……織次は、かつ思いかつ歩行《ある》いて、丁《ちょう》どその辻へ来た。
四
湯屋《ゆや》は郵便局の方へ背後《うしろ》になった。
辻の、この辺《あたり》で、月の中空《なかぞら》に雲を渡る婦《おんな》の幻《まぼろし》を見たと思う、屋根の上から、城の大手《おおて》の森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、一筋《ひとすじ》真白《まっしろ》な雲の靡《なび》くのは、やがて銀河になる時節も近い。……視《なが》むれば、幼い時のその光景《ありさま》を目前《まのあたり》に見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世が兎《うさぎ》であった時、木賊《とくさ》の中から、ひょいと覗《のぞ》いた景色かも分らぬ。待て、希《こいねがわ》くは兎でありたい。二股坂《ふたまたざか》の狸《たぬき》は恐れる。
いや、こうも、他愛《たわい》のない事を考えるのも、思出すのも、小北《おぎた》の許《とこ》へ行《ゆ》くにつけて、人は知らず、自分で気が咎《とが》める己《おの》が心を、我《われ》とさあらぬ方《かた》へ紛《まぎ》らそうとしたのであった。
さて、この辻から、以前織次の家のあった、某《なにがし》……町の方へ、大手筋《おおてすじ》を真直《まっすぐ》に折れて、一|丁《ちょう》ばかり行った処《ところ》に、小北の家がある。
両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側《むこうがわ》だけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水《ようじんみず》の水溜《みずたまり》で、石畳みは強勢《ごうせい》でも、緑晶色《ろくしょういろ》の大溝《おおみぞ》になっている。
向うの溝から鰌《どじょう》にょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌《しゃべ》るのは、けだしこの水溜《みずたまり》からはじまった事であろう、と夏の夜店へ行帰《ゆきかえ》りに、織次は独《ひと》りでそう考えたもので。
同一《おなじ》早饒舌《はやしゃべ》りの中に、茶釜雨合羽《ちゃがまあまがっぱ》と言うのがある。トあたかもこの溝の左角《ひだりかど》が、合羽屋《かっぱや》、は面白い。……まだこの時も、渋紙《しぶかみ》の暖簾《のれん》が懸《かか》った。
折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過《ゆきす》ぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出《あるきだ》した時、織次は帽子の庇《ひさし》を下げたが、瞳《ひとみ》を屹《きっ》と、溝の前から、件《くだん》の小北の店を透かした。
此処《ここ》にまた立留《たちどま》って、少時《しばらく》猶予《ためら》っていたのである。
木格子《きごうし》の中に硝子戸《がらすど》を入れた店の、仕事の道具は見透《みえす》いたが、弟子の前垂《まえだれ》も見えず、主人《あるじ》の平吉が半纏《はんてん》も見えぬ。
羽織の袖口《そでくち》両方が、胸にぐいと上《あが》るように両腕を組むと、身体《からだ》に勢《いきおい》を入れて、つかつかと足を運んだ。
軒《のき》から直ぐに土間《どま》へ入って、横向きに店の戸を開けながら、
「御免なさいよ。」
「はいはい。」
と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た婦《おんな》は、下膨《しもぶく》れの色白で、真中から鬢《びん》を分けた濃い毛の束《たば》ね髪《がみ》、些《ち》と煤《すす》びたが、人形だちの古風な顔。満更《まんざら》の容色《きりょう》ではないが、紺の筒袖《つつそで》の上被衣《うわっぱり》を、浅葱《あさぎ》の紐で胸高《むなだか》にちょっと留《と》めた甲斐甲斐《かいがい》しい女房ぶり。些《ち》と気になるのは、この家《うち》あたりの暮向《くらしむ》きでは、これがつい通りの風俗で、誰《たれ》も怪《あや》しみはしないけれども、畳の上を尻端折《しりばしょり》、前垂《まえだれ》で膝を隠したばかりで、湯具《ゆのぐ》をそのままの足を、茶の間と店の敷居で留《と》めて、立ち身のなりで口早《くちばや》なものの言いよう。
「何処《どこ》からおいで遊ばしたえ、何んの御用で。」
と一向《いっこう》気のない、空《くう》で覚えたような口上《こうじょう》。言《ことば》つきは慇懃《いんぎん》ながら、取附《とりつ》き端《は》のない会釈をする。
「私だ、立田《たつた》だよ、しばらく。」
もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも勢《せい》のない、塗ったような瞳を流して、凝《じっ》と見たが、
「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を支《つ》いた。胸を衝《つ》と反らしながら、驚いた風をして、
「どうして貴下《あなた》。」
とひょいと立つと、端折《はしょ》った太脛《ふくらはぎ》の包《つつ》ましい見得《みえ》ものう、ト身を返して、背後《うしろ》を見せて、つかつかと摺足《すりあし》して、奥の方《かた》へ駈込みながら、
「もしえ! もしえ! ちょっと……立田様の織《おり》さんが。」
「何、立田さんの。」
「織さんですがね。」
「や、それは。」
という平吉の声が台所で。がたがた、土間を踏む下駄《げた》の音。
五
「さあ、お上《あが》り遊ばして、まあ、どうして貴下《あなた》。」
とまた店口《みせぐち》へ取って返して、女房は立迎《たちむか》える。
「じゃ、御免なさい。」
「どうぞこちらへ。」と、大きな声を出して、満面の笑顔を見せた平吉は、茶の室《ま》を越した見通しの奥へ、台所から駈込んで、幅の広い前垂《まえだれ》で、濡《ぬ》れた手をぐいと拭《ふ》きつつ、
「ずっと、ずっとずっとこちらへ。」ともう真中へ座蒲団《ざぶとん》を持出して、床の間の方へ直しながら、一ツくるりと立身《たちみ》で廻る。
「構っちゃ可厭《いや》だよ。」と衝《つ》と茶の間を抜ける時、襖《ふすま》二|間《けん》の上を渡って、二階の階子段《はしごだん》が緩《ゆる》く架《かか》る、拭込《ふきこ》んだ大戸棚《おおとだな》の前で、入《いれ》ちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと後退《あとずさ》りに退《すさ》った。
その茶の室《ま》の長火鉢を挟《はさ》んで、差《さし》むかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火鉢の向うに踞《つくば》って、その法然天窓《ほうねんあたま》が、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶《てつびん》より低い処《ところ》にしなびたのは、もう七十の上《うえ》になろう。この女房の母親《おふくろ》で、年紀《とし》の相違が五十の上《うえ》、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番|末子《すえっこ》である所為《せい》で、それ、黒のけんちゅうの羽織《はおり》を着て、小さな髷《まげ》に鼈甲《べっこう》の耳こじりをちょこんと極《き》めて、手首に輪数珠《わじゅず》を掛けた五十格好の婆《ばばあ》が背後向《うしろむき》に坐ったのが、その総領《そうりょう》の娘である。
不沙汰《ぶさた》見舞に来ていたろう。この婆《ばばあ》は、よそへ嫁附《かたづ》いて今は産んだ忰《せがれ》にかかっているはず。忰というのも、煙管《きせる》、簪《かんざし》、同じ事を業《ぎょう》とする。
が、この婆娘《ばばあむすめ》は虫が好かぬ。何為《なぜ》か、その上、幼い記憶に怨恨《うらみ》があるような心持《こころもち》が、一目見ると直ぐにむらむらと起ったから――この時黄色い、でっぷりした眉《まゆ》のない顔を上げて、じろりと額《ひたい》で見上げたのを、織次は屹《きっ》と唯一目《ただひとめ》。で、知らぬ顔して奥へ通った。
「南無阿弥陀仏《なあまいだぶ》。」
と折から唸《うな》るように老人《としより》が唱《とな》えると、婆娘《ばばあむすめ》は押冠《おっかぶ》せて、
「南無阿弥陀仏《なあまいだんぶ》。」と生若《なまわか》い声を出す。
「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも遣《や》らず、中腰でそわそわ。
「お忙しいかね。」と織次は構わず、更紗《さらさ》の座蒲団を引寄せた。
「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい暇《ひま》でもございまするしね、怠《なま》け仕事に板前《いたまえ》で庖丁《ほうちょう》の腕前を見せていた所で
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