此処《ここ》からはもう近い。この柳の通筋《とおりすじ》を突当りに、真蒼《まっさお》な山がある。それへ向って二|町《ちょう》ばかり、城の大手《おおて》を右に見て、左へ折れた、屋並《やなみ》の揃《そろ》った町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。
 その男を訪ねるに仔細《しさい》はないが、訪ねて行《ゆ》くのに、十年|越《ごし》の思出がある、……まあ、もう少し秘《ひ》して置こう。
 さあ、其処《そこ》へ、となると、早や背後《うしろ》から追立《おった》てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々《ゆうゆう》と歩行《ある》き出したが、取って三十という年紀《とし》の、渠《かれ》の胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気《のんき》さは、この浪《なみ》が立とうとする用意に、フイと静まった海らしい。

       二

 この通《とおり》は、渠《かれ》が生れた町とは大分|間《あいだ》が離れているから、軒《のき》を並べた両側の家に、別に知己《ちかづき》の顔も見えぬ。それでも何かにつけて思出す事はあった。通りの中ほどに、一軒料理屋を兼ねた旅店《りょてん》がある。其処《そこ》へ東京から新任の県知事がお乗込《のりこみ》とあるについて、向った玄関に段々《だんだら》の幕を打ち、水桶《みずおけ》に真新しい柄杓《ひしゃく》を備えて、恭《うやうや》しく盛砂《もりずな》して、門から新筵《あらむしろ》を敷詰《しきつ》めてあるのを、向側の軒下に立って視《なが》めた事がある。通り懸《がか》りのお百姓は、この前を過ぎるのに、
「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議の節《せつ》に上京なされると、電話第何番と言うのが見得《みえ》の旅館へ宿って、葱《ねぎ》の※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》で、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。
 また夢のようだけれども、今見れば麺麭《パン》屋になった、丁《ちょう》どその硝子《がらす》窓のあるあたりへ、幕を絞って――暑くなると夜店の中へ、見世《みせ》ものの小屋が掛《かか》った。猿芝居、大蛇、熊、盲目《めくら》の墨塗《すみぬり》――(この土俵は星の下に暗かったが)――西洋手品など一廓《ひとくるわ》に、※[#「くさかんむり/((口/耳)+戈)」、第3水準1−91−28]草《どくだみ》の花を咲かせた――表通りへ目に立って、蜘蛛男《くもおとこ》の見世物があった事を思出す。
 額《ひたい》の出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人《おとな》の二倍、やがて一尺、飯櫃形《いびつなり》の天窓《あたま》にチョン髷《まげ》を載せた、身の丈《たけ》というほどのものはない。頤《あご》から爪先の生えたのが、金ぴかの上下《かみしも》を着た処《ところ》は、アイ来た、と手品師が箱の中から拇指《おやゆび》で摘《つま》み出しそうな中親仁《ちゅうおやじ》。これが看板で、小屋の正面に、鼠《ねずみ》の嫁入《よめいり》に担《かつ》ぎそうな小さな駕籠《かご》の中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額《おでこ》に蚯蚓《みみず》のような横筋を畝《うね》らせながら、きょろきょろと、込合《こみあ》う群集《ぐんじゅ》を視《なが》めて控える……口上言《こうじょういい》がその出番に、
「太夫《たゆう》いの、太夫いの。」と呼ぶと、駕籠の中で、しゃっきりと天窓《あたま》を掉立《ふりた》て、
「唯今《ただいま》、それへ。」
 とひねこびれた声を出し、頤《あご》をしゃくって衣紋《えもん》を造る。その身動きに、鼬《いたち》の香《におい》を芬《ぷん》とさせて、ひょこひょこと行《ゆ》く足取《あしどり》が蜘蛛《くも》の巣を渡るようで、大天窓《おおあたま》の頸窪《ぼんのくぼ》に、附木《つけぎ》ほどな腰板が、ちょこなんと見えたのを憶起《おもいおこ》す。
 それが舞台へ懸る途端に、ふわふわと幕を落す。その時|木戸《きど》に立った多勢《おおぜい》の方を見向いて、
「うふん。」といって、目を剥《む》いて、脳天から振下《ぶらさが》ったような、紅《あか》い舌をぺろりと出したのを見て、織次は悚然《ぞっ》として、雲の蒸す月の下を家《うち》へ遁帰《にげかえ》った事がある。
 人間ではあるまい。鳥か、獣《けもの》か、それともやっぱり土蜘蛛《つちぐも》の類《たぐい》かと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織次の祖母《おばあ》さんが、
「あれはの、二股坂《ふたまたざか》の庄屋《しょうや》殿じゃ。」といった。
 この二股坂と言うのは、山奥で、可怪《あやし》い伝説が少くない。それを越すと隣国への近路《ちかみち》ながら、人界との境《さかい》を隔《へだ》つ、自然のお関所のように土地の人は思うのである。
 この辺《あたり》から
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