国貞えがく
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)一処《ひとところ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五月|中旬《なかば》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》
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一
柳を植えた……その柳の一処《ひとところ》繁った中に、清水の湧《わ》く井戸がある。……大通り四《よ》ツ角《かど》の郵便局で、東京から組んで寄越《よこ》した若干金《なにがし》の為替《かわせ》を請取《うけと》って、三《み》ツ巻《まき》に包《くる》んで、ト先《ま》ず懐中に及ぶ。
春は過ぎても、初夏《はつなつ》の日の長い、五月|中旬《なかば》、午頃《ひるごろ》の郵便局は閑《かん》なもの。受附にもどの口にも他に立集《たちつど》う人は一人もなかった。が、為替は直ぐ手取早《てっとりばや》くは受取《うけと》れなかった。
取扱いが如何《いか》にも気長で、
「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴下《あなた》が御当人なのですか。」
などと間伸《まのび》のした、しかも際立《きわだ》って耳につく東京の調子で行《や》る、……その本人は、受取口から見た処《ところ》、二十四、五の青年で、羽織《はおり》は着ずに、小倉《こくら》の袴《はかま》で、久留米《くるめ》らしい絣《かすり》の袷《あわせ》、白い襯衣《しゃつ》を手首で留めた、肥った腕の、肩の辺《あたり》まで捲手《まくりで》で何とも以《もっ》て忙しそうな、そのくせ、する事は薩張《さっぱり》捗《はかど》らぬ。態《なり》に似合わず悠然《ゆうぜん》と落着済《おちつきす》まして、聊《いささ》か権高《けんだか》に見える処《ところ》は、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を饒舌《しゃべ》って、時々じろじろと下目《しため》に見越すのが、田舎漢《いなかもの》だと侮《あなど》るなと言う態度の、それが明《あきら》かに窓から見透《みえす》く。郵便局員|貴下《きか》、御心安《おこころやす》かれ、受取人の立田織次《たつたおりじ》も、同国《おなじくに》の平民である。
さて、局の石段を下りると、広々とした四辻《よつつじ》に立った。
「さあ、何処《どこ》へ行《ゆ》こう。」
何処へでも勝手に行くが可《よし》、また何処へも行かないでも可《い》い。このまま、今度の帰省中|転《ころ》がってる従姉《いとこ》の家《うち》へ帰っても可《い》いが、其処《そこ》は今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣《はかまいり》は昨日《きのう》済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日《あした》だし、好《すき》なものは晩に食べさせる、と従姉《いとこ》が言った。差当《さしあた》り何の用もない。何年にも幾日《いくか》にも、こんな暢気《のんき》な事は覚えぬ。おんぶするならしてくれ、で、些《ち》と他愛《たわい》がないほど、のびのびとした心地《ここち》。
気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで赫《かっ》と日が当ると、日中は早《はや》じりじりと来そうな頃が、近山曇《ちかやまぐも》りに薄《うっす》りと雲が懸って、真綿《まわた》を日光に干《ほ》すような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃《ひるごろ》の蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと柔《やわらか》い風が懸る。……その柳の下を、駈けて通る腕車《くるま》も見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜《おぼろよ》を浮れ出したような状《さま》だけれども、この土地ではこれでも賑《にぎやか》な町の分《ぶん》。城趾《しろあと》のあたり中空《なかぞら》で鳶《とび》が鳴く、と丁《ちょう》ど今が春《しゅん》の鰯《いわし》を焼く匂《におい》がする。
飯を食べに行っても可《よし》、ちょいと珈琲《コオヒイ》に菓子でも可《よし》、何処《どこ》か茶店で茶を飲むでも可《よし》、別にそれにも及ばぬ。が、袷《あわせ》に羽織で身は軽し、駒下駄《こまげた》は新しし、為替は取ったし、ままよ、若干金《なにがし》か貸しても可《い》い。
「いや、串戯《じょうだん》は止《よ》して……」
そうだ! 小北《おぎた》の許《とこ》へ行《ゆ》かねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりと緊《しま》って、身体《からだ》が帽子まで堅くなった。
何故《なぜ》か四辺《あたり》が視《なが》められる。
こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは平吉《へいきち》……平《へい》さんと言うが早解《はやわか》り。織次の亡き親父と同じ夥間《なかま》の職人である。
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