と覗《のぞ》いて、其処《そこ》に、手絡《てがら》の影もない。
織次はわっと泣出した。
父は立ちながら背《せな》を擦《さす》って、わなわな震えた。
雨の音が颯《さっ》と高い。
「おお、冷《つめて》え、本降《ほんぶり》、本降。」
と高調子《たかぢょうし》で門を入ったのが、此処《ここ》に差向《さしむか》ったこの、平吉の平《へい》さんであった。
傘《からかさ》をがさりと掛けて、提灯《ちょうちん》をふっと消す、と蝋燭《ろうそく》の匂《におい》が立って、家中《うちじゅう》仏壇の薫《かおり》がした。
「呀《や》! 世話場《せわば》だね、どうなすった、父《とっ》さん。お祖母《としより》は、何処《どこ》へ。」
で、父が一伍一什《いちぶしじゅう》を話すと――
「立替《たてか》えましょう、可惜《あったら》ものを。七貫や八貫で手離すには当りゃせん。本屋じゃ幾干《いくら》に買うか知れないけれど、差当《さしあた》り、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処《ここ》にあれば可《い》い訳《わけ》だ、と先ず言った訳《わけ》だ。先方《さき》の買直《かいね》がぎりぎりの処《ところ》なら買戻《かいもど》すとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさしてお置きなさい。……そらそら、はじめたはじめた、お株が出たぜえ。こんな事に済まぬも義理もあったものかね、ええ、君。」
と太《ひど》く書生ぶって、
「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、唯《ただ》立替えさして気が済まない、と言うんなら、その金子《かね》の出来るまで、僕が預かって置けば可《よ》うがしょう。さ、それで極《きま》った。……一ツ莞爾《にっこり》としてくれ給え。君、しかし何んだね、これにつけても、小児《こども》に学問なんぞさせねえが可《い》いじゃないかね。くだらない、もうこれ織公《おりこう》も十一、吹※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1−93−84]《ふいご》ばたばたは勤まるだ。二銭三銭の足《たし》にはなる。ソレ直ぐに鹿尾菜《ひじき》の代《だい》が浮いて出ようというものさ。……実の処《ところ》、僕が小指《レコ》の姉なんぞも、此家《ここ》へ一人|二度目妻《にどめの》を世話しようといってますがね、お互にこの職人が小児《こども》に本を買って遣《や》る苦労をするようじゃ、末《すえ》を見込んで嫁入《きて》がないッさ。ね、祖母《としより》が、孫と君の世話をして、この寒空《さむぞら》に水仕事だ。
因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。
――その姉と言うのが、次室《つぎのま》の長火鉢の処《ところ》に来ている。――
九
そこへ、祖母《としより》が帰って来たが、何んにも言わず、平吉に挨拶《あいさつ》もせぬ先に、
「さあ」と言って、本を出す。
織次は飛んで獅子の座へ直《なお》った勢《いきおい》。上から新撰に飛付《とびつ》く、と突《つん》のめったようになって見た。黒表紙には綾《あや》があって、艶《つや》があって、真黒な胡蝶《ちょうちょう》の天鵝絨《びろうど》の羽のように美しく……一枚開くと、きらきらと字が光って、細流《せせらぎ》のように動いて、何がなしに、言いようのない強い薫《かおり》が芬《ぷん》として、目と口に浸込《しみこ》んで、中に描《か》いた器械の図などは、ずッしり鉄《くろがね》の楯《たて》のように洋燈《ランプ》の前に顕《あらわ》れ出《い》でて、絵の硝子《がらす》が燐《ばっ》と光った。
さて、祖母《としより》の話では、古本屋は、あの錦絵《にしきえ》を五十銭から直《ね》を付け出して、しまいに七十五銭よりは出せぬと言う。きなかもその上はつかぬと断《ことわ》る。欲《ほし》い物理書は八十銭。何でも直ぐに買って帰って、孫が喜ぶ顔を見たさに、思案に余って、店端《みせさき》に腰を掛けて、時雨《しぐれ》に白髪《しらが》を濡らしていると、其処《そこ》の亭主が、それでは婆さんこうしなよ。此処《ここ》にそれ、はじめの一冊だけ、ちょっと表紙に竹箆《たけべら》の折返しの跡をつけた、古本の出物《でもの》がある。定価から五銭引いて、丁《ちょう》どに鍔《つば》を合わせて置く。で、孫に持って行って遣《や》るが可《い》い、と捌《さば》きを付けた。国貞《くにさだ》の画が雑《ざっ》と二百枚、辛《かろ》うじてこの四冊の、しかも古本と代ったのである。
平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。
「織坊《おりぼう》、母様《おっかさん》の記念《かたみ》だ。お祖母《ばあ》さんと一緒に行って、今度はお前が、背負《しょ》って来い。」
「あい。」
とその四冊を持って立つと、
「路《みち》が悪い、途中で落して汚すとならぬ、一冊
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