へ行《ゆ》くまいぞ。」
 と小さな声して言聞《いいき》かせた。織次は小児心《こどもごころ》にも、その絵を売って金子《かね》に代えるのである、と思った。……顔馴染《かおなじみ》の濃い紅《くれない》、薄紫《うすむらさき》、雪の膚《はだえ》の姉様《あねさま》たちが、この暗夜《やみのよ》を、すっと門《かど》を出る、……と偶《ふ》と寂しくなった。が、紅《べに》、白粉《おしろい》が何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょい、と躍《おど》った。
「待ってござい、織《おり》や。」
 ごろごろと静かな枢戸《くるるど》の音。
 台所を、どどんがたがた、鼠が荒野《あれの》と駈廻《かけまわ》る。
 と祖母《としより》が軒先から引返して、番傘《ばんがさ》を持って出直《でなお》す時、
「あのう、台所の燈《あかり》を消しといてくらっしゃいよ、の。」
 で、ガタリと門《かど》の戸がしまった。
 コトコトと下駄《げた》の音して、何処《どこ》まで行《ゆ》くぞ、時雨《しぐれ》の脚《あし》が颯《さっ》と通る。あわれ、祖母《としより》に導かれて、振袖《ふりそで》が、詰袖《つめそで》が、褄《つま》を取ったの、裳《もすそ》を引いたの、鼈甲《べっこう》の櫛《くし》の照々《てらてら》する、銀の簪《かんざし》の揺々《ゆらゆら》するのが、真白な脛《はぎ》も露わに、友染《ゆうぜん》の花の幻めいて、雨具もなしに、びしゃびしゃと、跣足《はだし》で田舎の、山近《やまぢか》な町の暗夜《やみよ》を辿《たど》る風情《ふぜい》が、雨戸の破目《やぶれめ》を朦朧《もうろう》として透《す》いて見えた。
 それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼い眼《まなこ》を眩《くら》まして、その美しい姉様たちを、ぼったて、ぼったて、叩き出した、黒表紙のその状《さま》を、後《のち》に思えば鬼であろう。
 台所の灯《ともしび》は、遙《はるか》に奥山家《おくやまが》の孤家《ひとつや》の如くに点《とも》れている。
 トその壁の上を窓から覗《のぞ》いて、風にも雨にも、ばさばさと髪を揺《ゆす》って、団扇《うちわ》の骨ばかりな顔を出す……隣の空地の棕櫚《しゅろ》の樹が、その夜は妙に寂《しん》として気勢《けはい》も聞えぬ。
 鼠も寂莫《ひっそり》と音を潜《ひそ》めた。……

       八

 台所と、この上框《あがりがまち》とを隔ての板戸《いたど》に、地方《いなか》の習慣《ならい》で、蘆《あし》の簾《すだれ》の掛ったのが、破れる、断《き》れる、その上、手の届かぬ何年かの煤《すす》がたまって、相馬内裏《そうまだいり》の古御所《ふるごしょ》めく。
 その蔭に、遠い灯《あかり》のちらりとするのを背後《うしろ》にして、お納戸色《なんどいろ》の薄い衣《きぬ》で、ひたと板戸に身を寄せて、今出て行った祖母《としより》の背後影《うしろかげ》を、凝《じっ》と見送る状《さま》に彳《たたず》んだ婦《おんな》がある。
 一目見て、幼い織次はこの現世《うつしよ》にない姿を見ながら、驚きもせず、しかし、とぼんとして小さく立った。
 その小児《こども》に振向《ふりむ》けた、真白な気高い顔が、雪のように、颯《さっ》と消える、とキリキリキリ――と台所を六角《ろっかく》に井桁《いげた》で仕切った、内井戸《うちいど》の轆轤《ろくろ》が鳴った。が、すぐに、かたりと小皿が響いた。
 流《ながし》の処《ところ》に、浅葱《あさぎ》の手絡《てがら》が、時ならず、雲から射す、濃い月影のようにちらちらして、黒髪《くろかみ》のおくれ毛がはらはらとかかる、鼻筋のすっと通《とお》った横顔が仄見《ほのみ》えて、白い拭布《ふきん》がひらりと動いた。
「織坊《おりぼう》。」
 と父が呼んだ。
「あい。」
 ばたばたと駈出して、その時まで同じ処《ところ》に、画《え》に描《か》いたように静《じっ》として動かなかった草色《くさいろ》の半纏《はんてん》に搦附《からみつ》く。
「ああ、阿母《おっか》のような返事をする。肖然《そっくり》だ、今の声が。」
 と膝へ抱く。胸に附着《くッつ》き、
「台所に母様《おっかさん》が。」
「ええ!」と父親が膝を立てた。
「祖母《おばあ》さんの手伝いして。」
 親父は、そのまま緊乎《しっか》と抱いて、
「織坊、本を買って、何を習う。」
「ああ、物理書を皆《みんな》読むとね、母様《おっかさん》のいる処《ところ》が分るって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの、台所にいるんだもの、もう買わなくとも可《い》い。……おいでよ、父上《おとっさん》。」
 と手を引張《ひっぱ》ると、猶予《ためら》いながら、とぼとぼと畳に空足《からあし》を踏んで、板の間《ま》へ出た。
 その跫音《あしおと》より、鼠の駈ける音が激しく、棕櫚《しゅろ》の骨がばさり
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