か、手綺麗《てぎれい》に装《よそ》わないと食えぬ奴さね。……もう不断《ふだん》、本場で旨《うま》いものを食《あが》りつけてるから、田舎料理なんぞお口には合わん、何にも入《い》らない、ああ、入《い》らないとも。」
 と独《ひと》りで極《き》めて、もじつく女房を台所へ追立《おった》てながら、
「織さん、鰯《いわし》のぬただ、こりゃ御存じの通り、他国にはない味です。これえ、早くしなよ。」
 ああ、しばらく。座にその鰯《いわし》の臭気のない内《うち》、言わねばならぬ事がある……
「あの、平さん。」
 と織次は若々しいもの言いした。
「此家《こちら》に何だね、僕ン許《とこ》のを買ってもらった、錦絵《にしきえ》があったっけね。」
「へい、錦絵。」と、さも年久《としひさ》しい昔を見るように、瞳《ひとみ》を凝《じっ》と上へあげる。
「内《うち》で困って、……今でも貧乏は同一《おんなじ》だが。」
 と織次は屹《きっ》と腕を拱《く》んだ。
「私が学校で要《い》る教科書が買えなかったので、親仁《おやじ》が思切《おもいき》って、阿母《おふくろ》の記念《かたみ》の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻《かいもど》して、蔵《しま》っといてくれた。その絵の事だよ。」
 時雨《しぐれ》の雲の暗い晩、寂しい水菜《みずな》で夕餉《ゆうげ》が済む、と箸《はし》も下に置かぬ前《さき》から、織次はどうしても持たねばならない、と言って強請《ねだ》った、新撰物理書《しんせんぶつりしょ》という四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へ通《かよ》われぬと言うのではない。科目は教師が黒板《ボオルド》に書いて教授するのを、筆記帳へ書取《かきと》って、事は足りたのであるが、皆《みんな》が持ってるから欲しくてならぬ。定価がその時|金《きん》八十銭と、覚えている。

       七

 親父はその晩、一合の酒も飲まないで、燈火《ともしび》の赤黒い、火屋《ほや》の亀裂《ひび》に紙を貼った、笠の煤《すす》けた洋燈《ランプ》の下《もと》に、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場《さいくば》に立ちもせず、袖《そで》に継《つぎ》のあたった、黒のごろの半襟《はんえり》の破れた、千草色《ちぐさいろ》の半纏《はんてん》の片手を懐《ふところ》に、膝を立てて、それへ頬杖《ほおづえ》ついて、面長《おもなが》な思案顔を重そうに支《ささ》えて黙然《だんまり》。
 ちょっと取着端《とりつきは》がないから、
「だって、欲《ほし》いんだもの。」と言い棄てに、ちょこちょこと板の間《ま》を伝って、だだッ広い、寒い台所へ行《ゆ》く、と向うの隅《すみ》に、霜《しも》が見える……祖母《おばあ》さんが頭巾《ずきん》もなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちと冷《つめた》い音で洗ってござる。
「買っとくれよ、よう。」
 と聞分《ききわ》けもなく織次がその袂《たもと》にぶら下った。流《ながし》は高い。走りもとの破れた芥箱《ごみばこ》の上下《うえした》を、ちょろちょろと鼠が走って、豆洋燈《まめランプ》が蜘蛛《くも》の巣の中に茫《ぼう》とある……
「よう、買っとくれよ、お弁当は梅干《うめぼし》で可《い》いからさ。」
 祖母《としより》は、顔を見て、しばらく黙って、
「おお、どうにかして進ぜよう。」
 と洗いさした茶碗をそのまま、前垂《まえだれ》で手を拭《ふ》き拭き、氷のような板の間を、店の畳へ引返《ひきかえ》して、火鉢の前へ、力なげに膝をついて、背後《うしろ》向きに、まだ俯向《うつむ》いたなりの親父を見向いて、
「の、そうさっしゃいよ。」
「なるほど。」
「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」
「それでは、母親《おっかさん》、御苦労でございます。」
「何んの、お前。」
 と納戸《なんど》へ入って、戸棚から持出した風呂敷包《ふろしきづつみ》が、その錦絵《にしきえ》で、国貞《くにさだ》の画が二百余枚、虫干《むしぼし》の時、雛祭《ひなまつり》、秋の長夜《ながよ》のおりおりごとに、馴染《なじみ》の姉様《あねさま》三千で、下谷《したや》の伊達者《だてしゃ》、深川《ふかがわ》の婀娜者《あだもの》が沢山《たんと》いる。
 祖母《おばあ》さんは下に置いて、
「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。
「いや、見ますまい。」
 と顔を背向《そむ》ける。
 祖母《としより》は解《ほど》き掛《か》けた結目《むすびめ》を、そのまま結《ゆわ》えて、ちょいと襟《えり》を引合わせた。細い半襟《はんえり》の半纏《はんてん》の袖《そで》の下に抱《かか》えて、店のはずれを板の間から、土間へ下りようとして、暗い処《ところ》で、
「可哀《かわい》やの、姉様《あねさま》たち。私《わし》が許《もと》を離れてもの、蜘蛛男《くもおとこ》に買われさっしゃるな、二股坂《ふたまたざか》
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