だけ持って来さっしゃい、また抱いて寝るのじゃの。」
と祖母《としより》も莞爾《にっこり》して、嫁の記念《かたみ》を取返す、二度目の外出《そとで》はいそいそするのに、手を曳《ひ》かれて、キチンと小口《こぐち》を揃えて置いた、あと三冊の兄弟を、父の膝許《ひざもと》に残しながら、出しなに、台所を竊《そっ》と覗《のぞ》くと、灯《ともしび》は棕櫚《しゅろ》の葉風《はかぜ》に自《おのず》から消えたと覚《おぼ》しく……真の暗がりに、もう何んにも見えなかった。
雨は小止《こやみ》で。
織次は夜道をただ、夢中で本の香《か》を嗅《か》いで歩行《ある》いた。
古本屋は、今日この平吉の家《うち》に来る時通った、確か、あの湯屋《ゆや》から四、五軒手前にあったと思う。四辻《よつつじ》へ行《ゆ》く時分に、祖母《としより》が破傘《やぶれがさ》をすぼめると、蒼《あお》く光って、蓋《ふた》を払ったように月が出る。山の形は骨ばかり白く澄《す》んで、兎《うさぎ》のような雲が走る。
織次は偶《ふ》と幻に見た、夜店の頃の銀河の上の婦《おんな》を思って、先刻《さっき》とぼとぼと地獄へ追遣《おいや》られた大勢の姉様《あねさん》は、まさに救われてその通り天にのぼる、と心が勇む。
一足先へ駈出して、見覚えた、古本屋の戸へ附着《くッつ》いたが、店も大戸《おおど》も閉っていた。寒さは寒し、雨は降ったり、町は寂《しん》として何処《どこ》にも灯《ひ》の影は見えぬ。
「もう寝たかの。」
と祖母《としより》がせかせかござって、
「御許《ごゆる》さい、御許さい。」
と遠慮らしく店頭《みせさき》の戸を敲《たた》く。
天窓《あまど》の上でガッタリ音して、
「何んじゃ。」
と言う太い声。箱のような仕切戸《しきりど》から、眉の迫った、頬の膨《ふく》れた、への字の口して、小鼻の筋から頤《おとがい》へかけて、べたりと薄髯《うすひげ》の生えた、四角な顔を出したのは古本屋の亭主で。……この顔と、その時の口惜《くやし》さを、織次は如何《いか》にしても忘れられぬ。
絵はもう人に売った、と言った。
見知越《みしりごし》の仁《じん》ならば、知らせて欲《ほし》い、何処《そこ》へ行って頼みたい、と祖母《としより》が言うと、ちょいちょい見懸ける男だが、この土地のものではねえの。越後《えちご》へ行《ゆ》く飛脚だによって、脚《あし》が疾《はや》い。今頃はもう二股《ふたまた》を半分越したろう、と小窓に頬杖《ほおづえ》を支《つ》いて嘲笑《あざわら》った。
縁《えん》の早い、売口《うれくち》の美《い》い別嬪《べっぴん》の画《え》であった。主《ぬし》が帰って間《ま》もない、店の燈許《あかりもと》へ、あの縮緬着物《ちりめんぎもの》を散らかして、扱帯《しごき》も、襟《えり》も引《ひっ》さらげて見ている処《ところ》へ、三度笠《さんどがさ》を横っちょで、てしま茣蓙《ござ》、脚絆穿《きゃはんばき》、草鞋《わらじ》でさっさっと遣《や》って来た、足の高い大男が通りすがりに、じろりと見て、いきなり価《ね》をつけて、ずばりと買って、濡《ぬ》らしちゃならぬと腰づけに、きりりと、上帯《うわおび》を結び添えて、雨の中をすたすたと行方《ゆくえ》知れずよ。……
「分ったか、お婆々《ばば》。」と言った。
十
断念《あきら》めかねて、祖母《としより》が何か二ツ三ツ口を利くと、挙句《あげく》の果《はて》が、
「老耄婆《もうろくばばあ》め、帰れ。」
と言って、ゴトンと閉めた。
祖母《としより》が、ト目を擦《こす》った帰途《かえりみち》。本を持った織次の手は、氷のように冷めたかった。そこで、小さな懐中《ふところ》へ小口《こぐち》を半分|差込《さしこ》んで、圧《おさ》えるように頤《おとがい》をつけて、悄然《しょんぼり》とすると、辻《つじ》の浪花節《なにわぶし》が語った……
「姫松《ひめまつ》殿がエ。」
が暗《やみ》から聞える。――織次は、飛脚に買去《かいさ》られたと言う大勢の姉様《あねさん》が、ぶらぶらと甘干《あまぼし》の柿のように、樹の枝に吊下《つりさ》げられて、上《あ》げつ下《お》ろしつ、二股坂《ふたまたざか》で苛《さいな》まれるのを、目のあたりに見るように思った。
とやっぱり芬《ぷん》とする懐中《ふところ》の物理書が、その途端に、松葉の燻《いぶ》る臭気《におい》がし出した。
固《もと》より口実、狐が化けた飛脚でのうて、今時《いまどき》町を通るものか。足許《あしもと》を見て買倒《かいたお》した、十倍百倍の儲《もうけ》が惜《おし》さに、貉《むじな》が勝手なことを吐《ほざ》く。引受《ひきう》けたり平吉が。
で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして買戻《かいもど》してくれた錦絵《にしきえ》である。
が、その後
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