《やぞう》、片手をぬい、と出し、人の顋《あご》をしゃくうような手つきで、銭を強請《ねだ》る、爪の黒い掌《てのひら》へ持っていただけの小遣《こづかい》を載せると、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったが、黄色い歯でニヤリとして、身体《からだ》を撫《な》でようとしたので、衝《つ》と極《きまり》が悪く退《すさ》った頸《うなじ》へ、大粒な雨がポツリと来た。
 忽《たちま》ち大驟雨《おおゆうだち》となったので、蒼くなって駈出《かけだ》して帰ったが、家《うち》までは七、八町、その、びしょ濡れさ加減《かげん》思うべしで。
 あと二夜《ふたよ》ばかりは、空模様を見て親たちが出さなかった。
 さて晴れれば晴れるものかな。磨出《みがきだ》した良《い》い月夜に、駒《こま》の手綱を切放《きりはな》されたように飛出《とびだ》して行った時は、もうデロレンの高座は、消えたか、と跡もなく、後幕《うしろまく》一重《ひとえ》引いた、あたりの土塀の破目《われめ》へ、白々《しろじろ》と月が射した。
 茫《ぼっ》となって、辻に立って、前夜の雨を怨《うら》めしく、空を仰《あお》ぐ、と皎々《こうこう》として澄渡《すみわた》って、銀河一帯、近い山の端《は》から玉《たま》の橋を町家《まちや》の屋根へ投げ懸ける。その上へ、真白《まっしろ》な形で、瑠璃《るり》色の透《す》くのに薄い黄金《きん》の輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のような女の姿が、すっと立って、するすると月の前を歩行《ある》いて消えた。……織次は、かつ思いかつ歩行《ある》いて、丁《ちょう》どその辻へ来た。

       四

 湯屋《ゆや》は郵便局の方へ背後《うしろ》になった。
 辻の、この辺《あたり》で、月の中空《なかぞら》に雲を渡る婦《おんな》の幻《まぼろし》を見たと思う、屋根の上から、城の大手《おおて》の森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、一筋《ひとすじ》真白《まっしろ》な雲の靡《なび》くのは、やがて銀河になる時節も近い。……視《なが》むれば、幼い時のその光景《ありさま》を目前《まのあたり》に見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世が兎《うさぎ》であった時、木賊《とくさ》の中から、ひょいと覗《のぞ》いた景色かも分らぬ。待て、希《こいねがわ》くは兎でありたい。二股坂《ふたまたざか》の狸《たぬき》は恐れる。
 いや、こうも、他愛《たわい》のない事を考えるのも、思出すのも、小北《おぎた》の許《とこ》へ行《ゆ》くにつけて、人は知らず、自分で気が咎《とが》める己《おの》が心を、我《われ》とさあらぬ方《かた》へ紛《まぎ》らそうとしたのであった。
 さて、この辻から、以前織次の家のあった、某《なにがし》……町の方へ、大手筋《おおてすじ》を真直《まっすぐ》に折れて、一|丁《ちょう》ばかり行った処《ところ》に、小北の家がある。
 両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側《むこうがわ》だけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水《ようじんみず》の水溜《みずたまり》で、石畳みは強勢《ごうせい》でも、緑晶色《ろくしょういろ》の大溝《おおみぞ》になっている。
 向うの溝から鰌《どじょう》にょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌《しゃべ》るのは、けだしこの水溜《みずたまり》からはじまった事であろう、と夏の夜店へ行帰《ゆきかえ》りに、織次は独《ひと》りでそう考えたもので。
 同一《おなじ》早饒舌《はやしゃべ》りの中に、茶釜雨合羽《ちゃがまあまがっぱ》と言うのがある。トあたかもこの溝の左角《ひだりかど》が、合羽屋《かっぱや》、は面白い。……まだこの時も、渋紙《しぶかみ》の暖簾《のれん》が懸《かか》った。
 折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過《ゆきす》ぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出《あるきだ》した時、織次は帽子の庇《ひさし》を下げたが、瞳《ひとみ》を屹《きっ》と、溝の前から、件《くだん》の小北の店を透かした。
 此処《ここ》にまた立留《たちどま》って、少時《しばらく》猶予《ためら》っていたのである。
 木格子《きごうし》の中に硝子戸《がらすど》を入れた店の、仕事の道具は見透《みえす》いたが、弟子の前垂《まえだれ》も見えず、主人《あるじ》の平吉が半纏《はんてん》も見えぬ。
 羽織の袖口《そでくち》両方が、胸にぐいと上《あが》るように両腕を組むと、身体《からだ》に勢《いきおい》を入れて、つかつかと足を運んだ。
 軒《のき》から直ぐに土間《どま》へ入って、横向きに店の戸を開けながら、
「御免なさいよ。」
「はいはい。」
 と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た婦《おんな》は、下膨《しもぶく》れの色白で、真中から鬢《びん》を分けた濃い毛の束《たば》ね髪《が
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