ひねたくあん》。
それもさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたろうという握太《にぎりぶと》なのを横銜《よこぐわ》えにしてやらかすのじゃ。
婦人《おんな》はよくよくあしらいかねたか、盗《ぬす》むように私《わし》を見てさっと顔を赭《あか》らめて初心らしい、そんな質《たち》ではあるまいに、羞《はず》かしげに膝《ひざ》なる手拭《てぬぐい》の端《はし》を口にあてた。
なるほどこの少年はこれであろう、身体《からだ》は沢庵色にふとっている。やがてわけもなく餌食《えじき》を平《たい》らげて湯ともいわず、ふッふッと大儀《たいぎ》そうに呼吸《いき》を向うへ吐《つ》くわさ。
(何でございますか、私は胸に支《つか》えましたようで、ちっとも欲しくございませんから、また後《のち》ほどに頂きましょう、)
と婦人《おんな》自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけてな。」
二十一
「しばらくしょんぼりしていたっけ。
(貴僧《あなた》、さぞお疲労《つかれ》、すぐにお休ませ申しましょうか。)
(難有《ありがと》う存じます、まだちっとも眠くはござりません、さっき体を洗いましたので草臥《くたびれ》もすっかり復《なお》りました。)
(あの流れはどんな病にでもよく利きます、私《わたし》が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽《か》れましても、半日あすこにつかっておりますと、水々しくなるのでございますよ。もっともあのこれから冬になりまして山がまるで氷ってしまい、川も崕《がけ》も残らず雪になりましても、貴僧《あなた》が行水を遊ばしたあすこばかりは水が隠《かく》れません、そうしていきりが立ちます。
鉄砲疵《てっぽうきず》のございます猿だの、貴僧《あなた》、足を折った五位鷺《ごいさぎ》、種々《いろいろ》なものが浴《ゆあ》みに参りますからその足跡《あしあと》で崕《がけ》の路が出来ますくらい、きっとそれが利いたのでございましょう。
そんなにございませんければこうやってお話をなすって下さいまし、寂《さび》しくってなりません、本当《ほんと》にお愧《はずか》しゅうございますが、こんな山の中に引籠《ひっこも》っておりますと、ものをいうことも忘れましたようで、心細いのでございますよ。
貴僧《あなた》、それでもお眠ければご遠慮《えんりょ》なさいますなえ。別にお寝室《ねま》と申してもございませんがその代り蚊《か》は一ツも居ませんよ、町方《まちかた》ではね、上《かみ》の洞《ほら》の者は、里へ泊りに来た時|蚊帳《かや》を釣《つ》って寝かそうとすると、どうして入るのか解らないので、梯子《はしご》を貸せいと喚《わめ》いたと申して嬲《なぶ》るのでございます。
たんと朝寐《あさね》を遊ばしても鐘《かね》は聞えず、鶏《とり》も鳴きません、犬だっておりませんからお心安《こころやす》うござんしょう。
この人も生れ落ちるとこの山で育ったので、何にも存じません代り、気のいい人でちっともお心置《こころおき》はないのでござんす。
それでも風俗《ふう》のかわった方がいらっしゃいますと、大事にしてお辞儀《じぎ》をすることだけは知ってでございますが、まだご挨拶《あいさつ》をいたしませんね。この頃《ごろ》は体がだるいと見えてお惰《なま》けさんになんなすったよ。いいえ、まるで愚《おろか》なのではございません、何でもちゃんと心得《こころえ》ております。
さあ、ご坊様にご挨拶をなすって下さい。まあ、お辞儀をお忘れかい。)と親しげに身を寄せて、顔を差し覗《のぞ》いて、いそいそしていうと、白痴《ばか》はふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくり一礼。
(はい、)といって私《わし》も何か胸が迫《せま》って頭《つむり》を下げた。
そのままその俯向《うつむ》いた拍子《ひょうし》に筋が抜けたらしい、横に流れようとするのを、婦人《おんな》は優しゅう扶《たす》け起して、
(おお、よくしたねえ。)
天晴《あっぱれ》といいたそうな顔色《かおつき》で、
(貴僧《あなた》、申せば何でも出来ましょうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でもあの水でも復《なお》りませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。それにご覧なさいまし、お辞儀一ツいたしますさえ、あの通り大儀《たいぎ》らしい。
ものを教えますと覚えますのにさぞ骨が折れて切《せつ》のうござんしょう、体を苦しませるだけだと存じて何にもさせないで置きますから、だんだん、手を動かす働《はたらき》も、ものをいうことも忘れました。それでもあの、謡《うた》が唄《うた》えますわ。二ツ三ツ今でも知っておりますよ。さあお客様に一ツお聞かせなさいましなね。)
白痴《ばか》は婦人《おんな》を見て、また私《わし》が顔をじろじろ見て、人見知《ひとみしり》をするといった形で首を振った。」
二十二
「左右《とこう》して、婦人《おんな》が、励《はげ》ますように、賺《すか》すようにして勧めると、白痴《ばか》は首を曲げてかの臍《へそ》を弄《もてあそ》びながら唄った。
木曽《きそ》の御嶽山《おんたけさん》は夏でも寒い、
袷遣《あわせや》りたや足袋添《たびそ》えて。
(よく知っておりましょう、)と婦人《おんな》は聞き澄して莞爾《にっこり》する。
不思議や、唄った時の白痴《ばか》の声はこの話をお聞きなさるお前様はもとよりじゃが、私《わし》も推量したとは月鼈雲泥《げっべつうんでい》、天地の相違、節廻《ふしまわ》し、あげさげ、呼吸《いき》の続くところから、第一その清らかな涼しい声という者は、到底《とうてい》この少年の咽喉《のど》から出たものではない。まず前《さき》の世のこの白痴《ばか》の身が、冥土《めいど》から管でそのふくれた腹へ通わして寄越《よこ》すほどに聞えましたよ。
私は畏《かしこま》って聞き果てると、膝に手をついたッきりどうしても顔を上げてそこな男女《ふたり》を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はらはらと落涙《らくるい》した。
婦人《おんな》は目早く見つけたそうで、
(おや、貴僧《あなた》、どうかなさいましたか。)
急にものもいわれなんだが漸々《ようよう》、
(はい、なあに、変ったことでもござりませぬ、私《わし》も嬢様のことは別にお尋《たず》ね申しませんから、貴女《あなた》も何にも問うては下さりますな。)
と仔細《しさい》は語らずただ思い入ってそう言うたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪《きんさぎょくさん》をかざし、蝶衣《ちょうい》を纏《まと》うて、珠履《しゅり》を穿《うが》たば、正《まさ》に驪山《りさん》に入って、相抱《あいいだ》くべき豊肥妖艶《ほうひようえん》の人が、その男に対する取廻しの優しさ、隔《へだて》なさ、深切《しんせつ》さに、人事《ひとごと》ながら嬉《うれ》しくて、思わず涙が流れたのじゃ。
すると人の腹の中を読みかねるような婦人《おんな》ではない、たちまち様子を悟《さと》ったかして、
(貴僧《あなた》はほんとうにお優しい。)といって、得《え》も謂《い》われぬ色を目に湛《たた》えて、じっと見た。私《わし》も首《こうべ》を低《た》れた、むこうでも差俯向《さしうつむ》く。
いや、行燈《あんどう》がまた薄暗くなって参ったようじゃが、恐らくこりゃ白痴《ばか》のせいじゃて。
その時よ。
座が白けて、しばらく言葉が途絶《とだ》えたうちに所在がないので、唄うたいの太夫《たゆう》、退屈《たいくつ》をしたとみえて、顔の前の行燈《あんどう》を吸い込むような大欠伸《おおあくび》をしたから。
身動きをしてな、
(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)とよたよた体を持扱《もちあつか》うわい。
(眠うなったのかい、もうお寝か。)といったが坐《すわ》り直ってふと気がついたように四辺《あたり》を※[#「目」+「句」 161−12]《みまわ》した。戸外《おもて》はあたかも真昼のよう、月の光は開《あ》け拡《ひろ》げた家《や》の内《うち》へはらはらとさして、紫陽花《あじさい》の色も鮮麗《あざやか》に蒼《あお》かった。
(貴僧《あなた》ももうお休みなさいますか。)
(はい、ご厄介《やっかい》にあいなりまする。)
(まあ、いま宿《やど》を寝かします、おゆっくりなさいましな。戸外《おもて》へは近うござんすが、夏は広い方が結句宜《けっくよ》うございましょう、私《わたし》どもは納戸《なんど》へ臥《ふ》せりますから、貴僧《あなた》はここへお広くお寛《くつろ》ぎがようござんす、ちょいと待って。)といいかけてつッと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌《かっばつ》であったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま項《うなじ》へ崩《くず》れた。
鬢《びん》をおさえて戸につかまって、戸外《おもて》を透《すか》したが、独言《ひとりごと》をした。
(おやおやさっきの騒《さわ》ぎで櫛《くし》を落したそうな。)
いかさま馬の腹を潜《くぐ》った時じゃ。」
二十三
この折から下の廊下《ろうか》に跫音《あしおと》がして、静《しずか》に大跨《おおまた》に歩行《ある》いたのが、寂《せき》としているからよく。
やがて小用《こよう》を達《た》した様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢《ちょうずばち》へ柄杓《ひしゃく》の響《ひびき》。
「おお、積《つも》った、積った。」と呟《つぶや》いたのは、旅籠屋《はたごや》の亭主の声である。
「ほほう、この若狭《わかさ》の商人《あきんど》はどこかへ泊ったと見える、何か愉快《おもしろ》い夢でも見ているかな。」
「どうぞその後を、それから。」と聞く身には他事をいううちが牴牾《もどか》しく、膠《にべ》もなく続きを促《うなが》した。
「さて、夜も更《ふ》けました、」といって旅僧《たびそう》はまた語出《かたりだ》した。
「たいてい推量もなさるであろうが、いかに草臥《くたび》れておっても申上げたような深山《みやま》の孤家《ひとつや》で、眠られるものではない、それに少し気になって、はじめの内|私《わし》を寝かさなかった事もあるし、目は冴《さ》えて、まじまじしていたが、さすがに、疲《つかれ》が酷《ひど》いから、心《しん》は少しぼんやりして来た、何しろ夜の白むのが待遠《まちどお》でならぬ。
そこではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷり経《た》ったものをと、怪《あや》しんだが、やがて気が付いて、こういう処じゃ山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。
その時は早や、夜がものに譬《たと》えると谷の底じゃ、白痴《ばか》がだらしのない寐息《ねいき》も聞えなくなると、たちまち戸の外にものの気勢《けはい》がしてきた。
獣《けもの》の跫音のようで、さまで遠くの方から歩行《ある》いて来たのではないよう、猿も、蟇《ひき》も、居る処と、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。
しばらくすると今そやつが正面の戸に近《ちかづ》いたなと思ったのが、羊の鳴声になる。
私はその方を枕《まくら》にしていたのじゃから、つまり枕頭《まくらもと》の戸外《おもて》じゃな。しばらくすると、右手《めて》のかの紫陽花が咲いていたその花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。
むささびか知らぬがきッきッといって屋の棟《むね》へ、やがておよそ小山ほどあろうと気取《けど》られるのが胸を圧《お》すほどに近《ちかづ》いて来て、牛が鳴いた、遠くの彼方《かなた》からひたひたと小刻《こきざみ》に駈《か》けて来るのは、二本足に草鞋《わらじ》を穿《は》いた獣と思われた、いやさまざまにむらむらと家《うち》のぐるりを取巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁《ささや》いているのがある。あたかも何よ、それ畜生道《ちくしょうどう》の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一枚、魑魅魍魎《ちみもうりょう》というのであろうか、ざわざわと木の葉が戦《そよ》ぐ気色《けしき》だった。
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