袖を前歯で引上げ、玉のような二の腕をあからさまに背中に乗せたが、じっと見て、
(まあ、)
(どうかいたしておりますか。)
(痣《あざ》のようになって、一面に。)
(ええ、それでございます、酷《ひど》い目に逢《あ》いました。)
 思い出してもぞッとするて。」

     十五

「婦人《おんな》は驚いた顔をして、
(それでは森の中で、大変でございますこと。旅をする人が、飛騨《ひだ》の山では蛭が降るというのはあすこでござんす。貴僧《あなた》は抜道をご存じないから正面《まとも》に蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。お生命《いのち》も冥加《みょうが》なくらい、馬でも牛でも吸い殺すのでございますもの。しかし疼《うず》くようにお痒《かゆ》いのでござんしょうね。)
(ただいまではもう痛みますばかりになりました。)
(それではこんなものでこすりましては柔《やわら》かいお肌が擦剥《すりむ》けましょう。)というと手が綿のように障《さわ》った。
 それから両方の肩から、背、横腹、臀《いしき》、さらさら水をかけてはさすってくれる。
 それがさ、骨に通って冷たいかというとそうではなかった。暑い時分じゃが、理窟《りくつ》をいうとこうではあるまい、私《わし》の血が沸《わ》いたせいか、婦人《おんな》の温気《ぬくみ》か、手で洗ってくれる水がいい工合《ぐあい》に身に染みる、もっとも質《たち》の佳《い》い水は柔かじゃそうな。
 その心地《ここち》の得《え》もいわれなさで、眠気《ねむけ》がさしたでもあるまいが、うとうとする様子で、疵《きず》の痛みがなくなって気が遠くなって、ひたと附《くっ》ついている婦人《おんな》の身体で、私《わし》は花びらの中へ包まれたような工合。
 山家《やまが》の者には肖合《にあ》わぬ、都にも希《まれ》な器量はいうに及《およ》ばぬが弱々しそうな風采《ふう》じゃ、背中を流す中《うち》にもはッはッと内証《ないしょ》で呼吸《いき》がはずむから、もう断ろう断ろうと思いながら、例の恍惚《うっとり》で、気はつきながら洗わした。
 その上、山の気か、女の香《におい》か、ほんのりと佳い薫《かおり》がする、私《わし》は背後《うしろ》でつく息じゃろうと思った。」
 上人《しょうにん》はちょっと句切って、
「いや、お前様お手近じゃ、その明《あかり》を掻《か》き立ってもらいたい、暗いと怪《け》しからぬ話じゃ、ここらから一番|野面《のづら》で遣《やっ》つけよう。」
 枕《まくら》を並べた上人の姿も朧《おぼろ》げに明《あかり》は暗くなっていた、早速|燈心《とうしん》を明くすると、上人は微笑《ほほえ》みながら続けたのである。
「さあ、そうやっていつの間にやら現《うつつ》とも無しに、こう、その不思議な、結構な薫のする暖《あったか》い花の中へ柔かに包まれて、足、腰、手、肩、頸《えり》から次第《しだい》に天窓《あたま》まで一面に被《かぶ》ったから吃驚《びっくり》、石に尻餅《しりもち》を搗《つ》いて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思うとたんに、女の手が背後《うしろ》から肩越しに胸をおさえたのでしっかりつかまった。
(貴僧《あなた》、お傍《そば》に居て汗臭《あせくそ》うはござんせぬかい、とんだ暑がりなんでございますから、こうやっておりましてもこんなでございますよ。)という胸にある手を取ったのを、慌《あわ》てて放して棒のように立った。
(失礼、)
(いいえ誰も見ておりはしませんよ。)と澄《すま》して言う、婦人《おんな》もいつの間にか衣服《きもの》を脱いで全身を練絹《ねりぎぬ》のように露《あらわ》していたのじゃ。
 何と驚《おどろ》くまいことか。
(こんなに太っておりますから、もうお愧《はずか》しいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来てはこうやって汗を流します、この水がございませんかったらどういたしましょう、貴僧《あなた》、お手拭《てぬぐい》。)といって絞《しぼ》ったのを寄越《よこ》した。
(それでおみ足をお拭《ふ》きなさいまし。)
 いつの間にか、体はちゃんと拭いてあった、お話し申すも恐《おそれ》多いが、はははははは。」

     十六

「なるほど見たところ、衣服《きもの》を着た時の姿とは違《ちご》うて肉《しし》つきの豊な、ふっくりとした膚《はだえ》。
(さっき小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中にかかって気味が悪うござんす。ちょうどようございますから私も体を拭きましょう。)
 と姉弟《きょうだい》が内端話《うちわばなし》をするような調子。手をあげて黒髪をおさえながら腋《わき》の下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅《うすくれない》になって流れよう。
 ちょいちょいと櫛《くし》を入れて、
(まあ、女がこんなお転婆《てんば》をいたしまして、川へ落《おっ》こちたらどうしましょう、川下《かわしも》へ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね。)
(白桃《しろもも》の花だと思います。)とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。
 すると、さも嬉《うれ》しそうに莞爾《にっこり》してその時だけは初々《ういうい》しゅう年紀《とし》も七ツ八ツ若やぐばかり、処女《きむすめ》の羞《はじ》を含《ふく》んで下を向いた。
 私《わし》はそのまま目を外《そ》らしたが、その一段の婦人《おんな》の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向う岸の※[#「さんずい」に 散 140−10]《しぶき》に濡《ぬ》れて黒い、滑《なめら》かな大きな石へ蒼味《あおみ》を帯びて透通《すきとお》って映るように見えた。
 するとね、夜目で判然《はっきり》とは目に入《い》らなんだが地体《じたい》何でも洞穴《ほらあな》があるとみえる。ひらひらと、こちらからもひらひらと、ものの鳥ほどはあろうという大蝙蝠《おおこうもり》が目を遮《さえぎ》った。
(あれ、いけないよ、お客様があるじゃないかね。)
 不意を打たれたように叫んで身悶《みもだ》えをしたのは婦人《おんな》。
(どうかなさいましたか、)もうちゃんと法衣《ころも》を着たから気丈夫《きじょうぶ》に尋《たず》ねる。
(いいえ、)
 といったばかりできまりが悪そうに、くるりと後向《うしろむき》になった。
 その時小犬ほどな鼠色《ねずみいろ》の小坊主《こぼうず》が、ちょこちょことやって来て、あなやと思うと、崖《がけ》から横に宙をひょいと、背後《うしろ》から婦人《おんな》の背中へぴったり。
 裸体《はだか》の立姿は腰から消えたようになって、抱《だき》ついたものがある。
(畜生《ちくしょう》、お客様が見えないかい。)
 と声に怒《いかり》を帯びたが、
(お前達は生意気《なまいき》だよ、)と激しくいいさま、腋の下から覗《のぞ》こうとした件《くだん》の動物の天窓《あたま》を振返《ふりかえ》りさまにくらわしたで。
 キッキッというて奇声を放った、件の小坊主はそのまま後飛《うしろと》びにまた宙を飛んで、今まで法衣《ころも》をかけておいた、枝の尖《さき》へ長い手で釣《つる》し下《さが》ったと思うと、くるりと釣瓶覆《つるべがえし》に上へ乗って、それなりさらさらと木登《きのぼり》をしたのは、何と猿《さる》じゃあるまいか。
 枝から枝を伝うと見えて、見上げるように高い木の、やがて梢《こずえ》まで、かさかさがさり。
 まばらに葉の中を透《すか》して月は山の端《は》を放れた、その梢のあたり。
 婦人《おんな》はものに拗《す》ねたよう、今の悪戯《いたずら》、いや、毎々、蟇《ひき》と蝙蝠《こうもり》と、お猿で三度じゃ。
 その悪戯に多《いた》く機嫌《きげん》を損《そこ》ねた形、あまり子供がはしゃぎ過ぎると、若い母様《おふくろ》には得《え》てある図じゃ。
 本当に怒り出す。
 といった風情《ふぜい》で面倒臭《めんどうくさ》そうに衣服《きもの》を着ていたから、私《わし》は何にも問わずに小さくなって黙って控《ひか》えた。」

     十七

「優しいなかに強みのある、気軽に見えてもどこにか落着のある、馴々《なれなれ》しくて犯し易《やす》からぬ品のいい、いかなることにもいざとなれば驚くに足らぬという身に応《こたえ》のあるといったような風の婦人《おんな》、かく嬌瞋《きょうしん》を発してはきっといいことはあるまい、今この婦人《おんな》に邪慳《じゃけん》にされては木から落ちた猿同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えていたが、いや案ずるより産《うむ》が安い。
(貴僧《あなた》、さぞおかしかったでござんしょうね、)と自分でも思い出したように快く微笑《ほほえ》みながら、
(しようがないのでございますよ。)
 以前と変らず心安くなった、帯も早やしめたので、
(それでは家《うち》へ帰りましょう。)と米磨桶《こめとぎおけ》を小腋《こわき》にして、草履《ぞうり》を引《ひっ》かけてつと崖《がけ》へ上《のぼ》った。
(お危《あぶの》うござんすから。)
(いえ、もうだいぶ勝手が分っております。)
 ずッと心得《こころえ》た意《つもり》じゃったが、さて上《あが》る時見ると思いの外《ほか》上までは大層高い。
 やがてまた例の木の丸太を渡るのじゃが、さっきもいった通り草のなかに横倒れになっている木地がこうちょうど鱗《うろこ》のようで、譬《たとえ》にもよくいうが松の木は蝮《うわばみ》に似ているで。
 殊《こと》に崖を、上の方へ、いい塩梅《あんばい》に蜿《うね》った様子が、とんだものに持って来いなり、およそこのくらいな胴中《どうなか》の長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月あかりに歴然《ありあり》とそれ。
 山路の時を思い出すと我ながら足が竦《すく》む。
 婦人《おんな》は深切に後《うしろ》を気遣《きづこ》うては気を付けてくれる。
(それをお渡りなさいます時、下を見てはなりません。ちょうどちゅうとでよッぽど谷が深いのでございますから、目が廻《ま》うと悪うござんす。)
(はい。)
 愚図愚図《ぐずぐず》してはいられぬから、我身《わがみ》を笑いつけて、まず乗った。引《ひっ》かかるよう、刻《きざ》が入れてあるのじゃから、気さえ確《たしか》なら足駄《あしだ》でも歩行《ある》かれる。
 それがさ、一件じゃから耐《たま》らぬて、乗るとこうぐらぐらして柔かにずるずると這《は》いそうじゃから、わっというと引跨《ひんまた》いで腰をどさり。
(ああ、意気地《いくじ》はございませんねえ。足駄では無理でございましょう、これとお穿《は》き換《か》えなさいまし、あれさ、ちゃんということを肯《き》くんですよ。)
 私《わし》はそのさっきから何《な》んとなくこの婦人《おんな》に畏敬《いけい》の念が生じて善か悪か、どの道命令されるように心得たから、いわるるままに草履を穿いた。
 するとお聞きなさい、婦人《おんな》は足駄を穿きながら手を取ってくれます。
 たちまち身が軽くなったように覚えて、訳《わけ》なく後《うしろ》に従って、ひょいとあの孤家《ひとつや》の背戸《せど》の端《はた》へ出た。
 出会頭《であいがしら》に声を懸《か》けたものがある。
(やあ、大分手間が取れると思ったに、ご坊様旧《ぼうさまもと》の体で帰らっしゃったの。)
(何をいうんだね、小父様家《おじさんうち》の番はどうおしだ。)
(もういい時分じゃ、また私《わし》も余《あんま》り遅《おそ》うなっては道が困るで、そろそろ青を引出して支度《したく》しておこうと思うてよ。)
(それはお待遠《まちどお》でござんした。)
(何さ、行ってみさっしゃいご亭主《ていしゅ》は無事じゃ、いやなかなか私《わし》が手には口説《くどき》落されなんだ、ははははは。)と意味もないことを大笑《おおわらい》して、親仁《おやじ》は厩《うまや》の方へてくてくと行った。
 白痴《ばか》はおなじ処になお形を存している、海月《くらげ》も日にあたらねば解けぬとみえる。」

     十八

「ヒイイン! しっ、どうどうどうと背戸
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