いて出たが、屈《かが》んで板縁《いたえん》の下を覗《のぞ》いて、引出したのは一足の古|下駄《げた》で、かちりと合《あわ》して埃《ほこり》を払《はた》いて揃《そろ》えてくれた。
(お穿《は》きなさいまし、草鞋《わらじ》はここにお置きなすって、)
 私《わし》は手をあげて、一礼して、
(恐入ります、これはどうも、)
(お泊め申すとなりましたら、あの、他生《たしょう》の縁《えん》とやらでござんす、あなたご遠慮を遊ばしますなよ。)まず恐しく調子がいいじゃて。」

     十二

「(さあ、私に跟《つ》いてこちらへ、)と件の米磨桶《こめとぎおけ》を引抱《ひっかか》えて手拭《てぬぐい》を細い帯に挟《はさ》んで立った。
 髪は房《ふっさ》りとするのを束《たば》ねてな、櫛《くし》をはさんで簪《かんざし》で留《と》めている、その姿の佳《よ》さというてはなかった。
 私《わし》も手早く草鞋を解《と》いたから、早速古下駄を頂戴《ちょうだい》して、縁から立つ時ちょいと見ると、それ例の白痴殿《ばかどの》じゃ。
 同じく私《わし》が方《かた》をじろりと見たっけよ、舌不足《したたらず》が饒舌《しゃべ》るような、愚《ぐ》にもつかぬ声を出して、
(姉《ねえ》や、こえ、こえ。)といいながら気《け》だるそうに手を持上げてその蓬々《ぼうぼう》と生えた天窓《あたま》を撫《な》でた。
(坊さま、坊さま?)
 すると婦人《おんな》が、下《しも》ぶくれな顔にえくぼを刻んで、三ツばかりはきはきと続けて頷いた。
 少年はうむといったが、ぐたりとしてまた臍《へそ》をくりくりくり。
 私《わし》は余り気の毒さに顔も上げられないでそっと盗むようにして見ると、婦人《おんな》は何事も別に気に懸《か》けてはおらぬ様子、そのまま後へ跟《つ》いて出ようとする時、紫陽花《あじさい》の花の蔭《かげ》からぬいと出た一名の親仁《おやじ》がある。
 背戸《せど》から廻って来たらしい、草鞋を穿《は》いたなりで、胴乱《どうらん》の根付《ねつけ》を紐長《ひもなが》にぶらりと提《さ》げ、銜煙管《くわえぎせる》をしながら並んで立停《たちどま》った。
(和尚《おしょう》様おいでなさい。)
 婦人《おんな》はそなたを振向いて、
(おじ様どうでござんした。)
(さればさの、頓馬《とんま》で間の抜けたというのはあのことかい。根ッから早や狐《きつね》でなければ乗せ得そうにもない奴《やつ》じゃが、そこはおらが口じゃ、うまく仲人《なこうど》して、二月《ふたつき》や三月《みつき》はお嬢様《じょうさま》がご不自由のねえように、翌日《あす》はものにしてうんとここへ担《かつ》ぎ込みます。)
(お頼み申しますよ。)
(承知、承知、おお、嬢様どこさ行かっしゃる。)
(崖の水までちょいと。)
(若い坊様連れて川へ落っこちさっしゃるな、おらここに眼張《がんば》って待っとるに、)と横様《よこざま》に縁にのさり。
(貴僧《あなた》、あんなことを申しますよ。)と顔を見て微笑《ほほえ》んだ。
(一人で参りましょう、)と傍《わき》へ退《の》くと、親仁《おやじ》はくっくっと笑って、
(はははは、さあ、早くいってござらっせえ。)
(おじ様、今日はお前、珍《めずら》しいお客がお二方ござんした、こういう時はあとからまた見えようも知れません、次郎さんばかりでは来た者が弱んなさろう、私《わたし》が帰るまでそこに休んでいておくれでないか。)
(いいともの。)といいかけて、親仁《おやじ》は少年の傍《そば》へにじり寄って、鉄挺《かなてこ》を見たような拳《こぶし》で、背中をどんとくらわした、白痴《ばか》の腹はだぶりとして、べそをかくような口つきで、にやりと笑う。
 私《わし》はぞっとして面《おもて》を背けたが、婦人《おんな》は何気《なにげ》ない体《てい》であった。
 親仁《おやじ》は大口を開いて、
(留守におらがこの亭主を盗むぞよ。)
(はい、ならば手柄《てがら》でござんす、さあ、貴僧《あなた》参りましょうか。)
 背後《うしろ》から親仁が見るように思ったが、導かるるままに壁《かべ》について、かの紫陽花のある方ではない。
 やがて背戸と思う処で左に馬小屋を見た、ことことという音は羽目《はめ》を蹴《け》るのであろう、もうその辺から薄暗くなって来る。
(貴僧《あなた》、ここから下りるのでございます、辷《すべ》りはいたしませぬが、道が酷《ひど》うございますからお静《しずか》に、)という。」

     十三

「そこから下りるのだと思われる、松の木の細くッて度外れに背の高い、ひょろひょろしたおよそ五六間上までは小枝一ツもないのがある。その中を潜《くぐ》ったが、仰《あお》ぐと梢《こずえ》に出て白い、月の形はここでも別にかわりは無かった、浮世《うきよ》はどこにあるか十三夜で。
 先へ立った婦人《おんな》の姿が目さきを放れたから、松の幹《みき》に掴《つか》まって覗《のぞ》くと、つい下に居た。
 仰向《あおむ》いて、
(急に低くなりますから気をつけて。こりゃ貴僧《あなた》には足駄《あしだ》では無理でございましたかしら、宜《よろ》しくば草履《ぞうり》とお取交《とりか》え申しましょう。)
 立後《たちおく》れたのを歩行悩《あるきなや》んだと察した様子、何がさて転げ落ちても早く行って蛭《ひる》の垢《あか》を落したさ。
(何、いけませんければ跣足《はだし》になります分のこと、どうぞお構いなく、嬢様にご心配をかけては済みません。)
(あれ、嬢様ですって、)とやや調子を高めて、艶麗《あでやか》に笑った。
(はい、ただいまあの爺様《じいさん》が、さよう申しましたように存じますが、夫人《おくさま》でございますか。)
(何にしても貴僧《あなた》には叔母《おば》さんくらいな年紀《とし》ですよ。まあ、お早くいらっしゃい、草履もようござんすけれど、刺《とげ》がささりますといけません、それにじくじく湿《ぬ》れていてお気味が悪うございましょうから。)と向う向《むき》でいいながら衣服《きもの》の片褄《かたつま》をぐいとあげた。真白なのが暗《やみ》まぎれ、歩行《ある》くと霜《しも》が消えて行くような。
 ずんずんずんずんと道を下りる、傍《かたわ》らの叢《くさむら》から、のさのさと出たのは蟇《ひき》で。
(あれ、気味が悪いよ。)というと婦人《おんな》は背後《うしろ》へ高々と踵《かかと》を上げて向うへ飛んだ。
(お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんか搦《から》まって、贅沢《ぜいたく》じゃあないか、お前達は虫を吸っていればたくさんだよ。
 貴僧《あなた》ずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。こう云う処ですからあんなものまで人|懐《なつか》しゅうございます、厭《いや》じゃないかね、お前達と友達をみたようで愧《はずか》しい、あれいけませんよ。)
 蟇はのさのさとまた草を分けて入った、婦人《おんな》はむこうへずいと。
(さあこの上へ乗るんです、土が柔かで壊《く》えますから地面は歩行《ある》かれません。)
 いかにも大木の僵《たお》れたのが草がくれにその幹をあらわしている、乗ると足駄穿《あしだばき》で差支《さしつか》えがない、丸木だけれどもおそろしく太いので、もっともこれを渡り果てるとたちまち流《ながれ》の音が耳に激《げき》した、それまでにはよほどの間《あいだ》。
 仰いで見ると松の樹《き》はもう影も見えない、十三夜の月はずっと低うなったが、今下りた山の頂《いただき》に半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知られぬ。
(貴僧《あなた》、こちらへ。)
 といった婦人《おんな》はもう一息、目の下に立って待っていた。
 そこは早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかってここによどみを作っている、川幅は一|間《けん》ばかり、水に臨《のぞ》めば音はさまでにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、かえって遠くの方で凄《すさま》じく岩に砕《くだ》ける響《ひびき》がする。
 向う岸はまた一座の山の裾《すそ》で、頂の方は真暗《まっくら》だが、山の端《は》からその山腹を射る月の光に照し出された辺《あたり》からは大石小石、栄螺《さざえ》のようなの、六尺角に切出したの、剣《つるぎ》のようなのやら、鞠《まり》の形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きく水に※[#「くさかんむり」に「酉へん」+「隹」、その下に点4個 133−2]《ひた》ったのはただ小山のよう。」

     十四

「(いい塩梅《あんばい》に今日は水がふえておりますから、中へ入りませんでもこの上でようございます。)と甲を浸《ひた》して爪先《つまさき》を屈《かが》めながら、雪のような素足で石の盤《ばん》の上に立っていた。
 自分達が立った側《かわ》は、かえってこっちの山の裾が水に迫って、ちょうど切穴の形になって、そこへこの石を嵌《は》めたような誂《あつらえ》。川上も下流も見えぬが、向うのあの岩山、九十九折《つづらおり》のような形、流は五尺、三尺、一間ばかりずつ上流の方がだんだん遠く、飛々《とびとび》に岩をかがったように隠見《いんけん》して、いずれも月光を浴びた、銀の鎧《よろい》の姿、目《ま》のあたり近いのはゆるぎ糸を捌《さば》くがごとく真白に翻《ひるがえ》って。
(結構な流れでございますな。)
(はい、この水は源が滝《たき》でございます、この山を旅するお方は皆《み》な大風のような音をどこかで聞きます。貴僧《あなた》はこちらへいらっしゃる道でお心着きはなさいませんかい。)
 さればこそ山蛭《やまびる》の大藪《おおやぶ》へ入ろうという少し前からその音を。
(あれは林へ風の当るのではございませんので?)
(いえ、誰《たれ》でもそう申します、あの森から三里ばかり傍道《わきみち》へ入りました処に大滝があるのでございます、それはそれは日本一だそうですが、路《みち》が嶮《けわ》しゅうござんすので、十人に一人参ったものはございません。その滝が荒《あ》れましたと申しまして、ちょうど今から十三年前、恐《おそろ》しい洪水《おおみず》がございました、こんな高い処まで川の底になりましてね、麓《ふもと》の村も山も家も残らず流れてしまいました。この上《かみ》の洞《ほら》も、はじめは二十軒ばかりあったのでござんす、この流れもその時から出来ました、ご覧なさいましな、この通り皆な石が流れたのでございますよ。)
 婦人《おんな》はいつかもう米を精《しら》げ果てて、衣紋《えもん》の乱れた、乳の端《はし》もほの見ゆる、膨《ふく》らかな胸を反《そら》して立った、鼻高く口を結んで目を恍惚《うっとり》と上を向いて頂を仰いだが、月はなお半腹のその累々《るいるい》たる巌《いわお》を照すばかり。
(今でもこうやって見ますと恐《こわ》いようでございます。)と屈んで二《に》の腕《うで》の処を洗っていると。
(あれ、貴僧《あなた》、そんな行儀《ぎょうぎ》のいいことをしていらしってはお召《めし》が濡《ぬ》れます、気味が悪うございますよ、すっぱり裸体《はだか》になってお洗いなさいまし、私が流して上げましょう。)
(いえ、)
(いえじゃあござんせぬ、それ、それ、お法衣《ころも》の袖《そで》が浸《ひた》るではありませんか、)というと突然背後《いきなりうしろ》から帯に手をかけて、身悶《みもだえ》をして縮むのを、邪慳《じゃけん》らしくすっぱり脱《ぬ》いで取った。
 私《わし》は師匠《ししょう》が厳《きび》しかったし、経を読む身体《からだ》じゃ、肌《はだ》さえ脱いだことはついぞ覚えぬ。しかも婦人《おんな》の前、蝸牛《まいまいつぶろ》が城を明け渡したようで、口を利《き》くさえ、まして手足のあがきも出来ず、背中を円くして、膝《ひざ》を合せて、縮かまると、婦人《おんな》は脱がした法衣《ころも》を傍《かたわ》らの枝へふわりとかけた。
(お召はこうやっておきましょう、さあお背《せな》を、あれさ、じっとして。お嬢様とおっしゃって下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い。)といって片
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