ら、飯に一折の鮨《すし》を買った。旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、蓋《ふた》を開けると、ばらばらと海苔《のり》が懸《かか》った、五目飯《ちらし》の下等なので。
(やあ、人参《にんじん》と干瓢《かんぴょう》ばかりだ。)と粗忽《そそ》ッかしく絶叫《ぜっきょう》した。私の顔を見て旅僧は耐《こら》え兼ねたものと見える、くっくっと笑い出した、もとより二人ばかりなり、知己《ちかづき》にはそれからなったのだが、聞けばこれから越前へ行って、派は違《ちが》うが永平寺《えいへいじ》に訪ねるものがある、但《ただ》し敦賀に一|泊《ぱく》とのこと。
若狭《わかさ》へ帰省する私もおなじ処《ところ》で泊《とま》らねばならないのであるから、そこで同行の約束《やくそく》が出来た。
かれは高野山《こうやさん》に籍《せき》を置くものだといった、年配四十五六、柔和《にゅうわ》ななんらの奇《き》も見えぬ、懐《なつか》しい、おとなしやかな風采《とりなり》で、羅紗《らしゃ》の角袖《かくそで》の外套《がいとう》を着て、白のふらんねるの襟巻《えりまき》をしめ、土耳古形《トルコがた》の帽《ぼう》を冠《かぶ》り、毛糸の手袋《てぶくろ》を嵌《は》め、白足袋《しろたび》に日和下駄《ひよりげた》で、一見、僧侶《そうりょ》よりは世の中の宗匠《そうしょう》というものに、それよりもむしろ俗か。
(お泊りはどちらじゃな、)といって聞かれたから、私は一人旅の旅宿のつまらなさを、しみじみ歎息《たんそく》した、第一|盆《ぼん》を持って女中が坐睡《いねむり》をする、番頭が空世辞《そらせじ》をいう、廊下《ろうか》を歩行《ある》くとじろじろ目をつける、何より最も耐《た》え難《がた》いのは晩飯の支度《したく》が済むと、たちまち灯《あかり》を行燈《あんどん》に換《か》えて、薄暗《うすぐら》い処でお休みなさいと命令されるが、私は夜が更《ふ》けるまで寐《ね》ることが出来ないから、その間の心持といったらない、殊《こと》にこの頃《ごろ》は夜は長し、東京を出る時から一晩の泊《とまり》が気になってならないくらい、差支《さしつか》えがなくば御僧《おんそう》とご一所《いっしょ》に。
快く頷《うなず》いて、北陸地方を行脚《あんぎゃ》の節はいつでも杖《つえ》を休める香取屋《かとりや》というのがある、旧《もと》は一|軒《けん》の旅店《りょてん》であった
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