ず、殊《こと》に一|軒家《けんや》、あけ開《ひら》いたなり門《もん》といふでもない、突然《いきなり》破椽《やぶれえん》になつて男《をとこ》が一人《ひとり》、私《わし》はもう何《なん》の見境《みさかひ》もなく、(頼《たの》みます、頼《たの》みます、)といふさへ助《たすけ》を呼《よ》ぶやうな調子《てうし》で、取縋《とりすが》らぬばかりにした。
(御免《ごめん》なさいまし、)といつたがものもいはない、首筋《くびすぢ》をぐつたりと、耳《みゝ》を肩《かた》で塞《ふさ》ぐほど顔《かほ》を横《よこ》にしたまゝ小児《こども》らしい、意味《いみ》のない、然《しか》もぼつちりした目《め》で、ぢろ/″\と、門《もん》に立《た》つたものを瞻《みつ》める、其《そ》の瞳《ひとみ》を動《うご》かすさい、おつくうらしい、気《き》の抜《ぬ》けた身《み》の持方《もちかた》。裾《すそ》短《みぢ》かで袖《そで》は肱《ひぢ》より少《すくな》い、糊気《のりけ》のある、ちやん/\を着《き》て、胸《むね》のあたりで紐《ひも》で結《ゆは》へたが、一ツ身《み》のものを着《き》たやうに出《で》ツ腹《ばら》の太《ふと》り肉《じゝ》、太鼓《たいこ》を張《は》つたくらゐに、すべ/\とふくれて然《しか》も出臍《でべそ》といふ奴《やつ》、南瓜《かぼちや》の蔕《へた》ほどな異形《いぎやう》な者《もの》を、片手《かたて》でいぢくりながら幽霊《いうれい》のつきで、片手《かたて》を宙《ちう》にぶらり。
 足《あし》は忘《わす》れたか投出《なげだ》した、腰《こし》がなくば暖簾《のれん》を立《た》てたやうに畳《たゝ》まれさうな、年紀《とし》が其《それ》で居《ゐ》て二十二三、口《くち》をあんぐりやつた上唇《うはくちびる》で巻込《まきこ》めやう、鼻《はな》の低《ひく》さ、出額《でびたひ》。五|分《ぶ》刈《がり》の伸《の》びたのが前《まへ》は鶏冠《とさか》の如《ごと》くになつて、頷脚《えりあし》へ刎《は》ねて耳《みゝ》に被《かぶさ》つた、唖《おし》か、白痴《ばか》か、これから蛙《かへる》にならうとするやうな少年《せうねん》。私《わし》は驚《おどろ》いた、此方《こツち》の生命《いのち》に別条《べつでう》はないが、先方様《さきさま》の形相《ぎやうさう》。いや、大別条《おほべつでう》。
(一寸《ちよいと》お願《ねが》ひ申《まを》します。)
 それでも為方《しかた》がないから又《また》言葉《ことば》をかけたが少《すこ》しも通《つう》ぜず、ばたりといふと僅《わづか》に首《くび》の位置《ゐち》をかへて今度《こんど》は左《ひだり》の肩《かた》を枕《まくら》にした、口《くち》の開《あ》いてること旧《もと》の如《ごと》し。
 恁《かう》云《い》ふのは、悪《わる》くすると突然《いきなり》ふんづかまへて臍《へそ》を捻《ひね》りながら返事《へんじ》のかはりに嘗《な》めやうも知《し》れぬ。
 私《わし》は一|足《あし》退《すさ》つたがいかに深山《しんざん》だといつても是《これ》を一人《ひとり》で置《お》くといふ法《はふ》はあるまい、と足《あし》を爪立《つまだ》てゝ少《すこ》し声高《こはだか》に、
(何方《どなた》ぞ、御免《ごめん》なさい、)といつた。
 背戸《せど》と思《おも》ふあたりで再《ふたゝ》び馬《うま》の嘶《いなゝ》く声《こゑ》。
(何方《どなた》、)と納戸《なんど》の方《はう》でいつたのは女《をんな》ぢやから、南無三宝《なむさんばう》、此《こ》の白《しろ》い首《くび》には鱗《うろこ》が生《は》へて、体《からだ》は床《ゆか》を這《は》つて尾《を》をずる/″\と引《ひ》いて出《で》やうと、又《また》退《すさ》つた。
(おゝ、御坊様《おばうさま》、)と立顕《たちあら》はれたのは小造《こづくり》の美《うつく》しい、声《こゑ》も清《すゞ》しい、ものやさしい。
 私《わし》は大息《おほいき》を吐《つ》いて、何《なん》にもいはず、
(はい。)と頭《つむり》を下《さ》げましたよ。
 婦人《をんな》は膝《ひざ》をついて坐《すわ》つたが、前《まへ》へ伸上《のびあが》るやうにして黄昏《たそがれ》にしよんぼり立《た》つた私《わし》が姿《すがた》を透《す》かし見《み》て、(何《なに》か用《よう》でござんすかい。)
 休《やす》めともいはずはじめから宿《やど》の常世《つねよ》は留主《るす》らしい、人《ひと》を泊《と》めないと極《き》めたものゝやうに見《み》える。
 いひ後《おく》れては却《かへ》つて出《で》そびれて頼《たの》むにも頼《たの》まれぬ仕誼《しぎ》にもなることゝ、つか/\と前《まへ》へ出《で》た。丁寧《ていねい》に腰《こし》を屈《かゞ》めて、
(私《わし》は、山越《やまごえ》で信州《しんしう》へ参《まゐ》ります者《もの》ですが旅籠《はたご》のございます処《ところ》までは未《ま》だ何《ど》の位《くらゐ》ございませう。)」

         第十一

「(貴方《あなた》まだ八|里《り》余《あまり》でございますよ。)
(其他《そのほか》に別《べつ》に泊《と》めてくれます家《うち》もないのでせうか。)
(其《それ》はございません。)といひながら目《め》たゝきもしないで清《すゞ》しい目《め》で私《わし》の顔《かほ》をつく/″\見《み》て居《ゐ》た。
(いえもう何《なん》でございます、実《じつ》は此先《このさき》一|町《ちやう》行《ゆ》け、然《さ》うすれば上段《じやうだん》の室《へや》に寝《ね》かして一|晩《ばん》扇《あふ》いで居《ゐ》て其《それ》で功徳《くどく》のためにする家《うち》があると承《うけたまは》りましても、全《まツた》くの処《ところ》一|足《あし》も歩行《ある》けますのではございません、何処《どこ》の物置《ものおき》でも馬小屋《うまごや》の隅《すみ》でも宜《よ》いのでございますから後生《ごしやう》でございます。)と前刻《さツき》馬《うま》の嘶《いなゝ》いたのは此家《こゝ》より外《ほか》にはないと思《おも》つたから言《い》つた。
 婦人《をんな》は暫《しばら》く考《かんが》へて居《ゐ》たが、弗《ふ》と傍《わき》を向《む》いて布《ぬの》の袋《ふくろ》を取《と》つて、膝《ひざ》のあたりに置《お》いた桶《をけ》の中《なか》へざら/\と一|巾《はゞ》、水《みづ》を溢《こぼ》すやうにあけて縁《ふち》をおさへて、手《て》で掬《すく》つて俯向《うつむ》いて見《み》たが、
(あゝ、お泊《と》め申《まを》しましやう、丁度《ちやうど》炊《た》いてあげますほどお米《こめ》もございますから、其《それ》に夏《なつ》のことで、山家《やまが》は冷《ひ》えましても夜《よる》のものに御不自由《ごふじいう》もござんすまい。さあ、左《と》も右《かく》もあなたお上《あが》り遊《あそ》ばして。)
といふと言葉《ことば》の切《き》れぬ先《さき》にどつかり腰《こし》を落《おと》した。婦人《をんな》は衝《つ》と身《み》を起《おこ》して立《た》つて来《き》て、
(御坊様《おばうさま》、それでござんすが一寸《ちよつと》お断《ことは》り申《まを》して置《お》かねばなりません。)
 判然《はツきり》いはれたので私《わし》はびく/\もので、
(唯《はい》、はい。)
(否《いえ》、別《べつ》のことぢやござんせぬが、私《わたし》は癖《くせ》として都《みやこ》の話《はなし》を聞《き》くのが病《やまひ》でございます、口《くち》に蓋《ふた》をしておいでなさいましても無理《むり》やりに聞《き》かうといたしますが、あなた忘《わす》れても其時《そのとき》聞《き》かして下《くだ》さいますな、可《よ》うござんすかい、私《わたし》は無理《むり》にお尋《たづ》ね申《まを》します、あなたは何《ど》うしてもお話《はな》しなさいませぬ、其《それ》を是非《ぜひ》にと申《まを》しましても断《た》つて有仰《おツしや》らないやうに屹《きツ》と念《ねん》を入《い》れて置《お》きますよ。)
と仔細《しさい》ありげなことをいつた。
 山《やま》の高《たか》さも谷《たに》の深《ふか》さも底《そこ》の知《し》れない一|軒家《けんや》の婦人《をんな》の言葉《ことば》とは思《おも》ふたが、保《たも》つにむづかしい戒《かい》でもなし、私《わし》は唯《たゞ》頷《うなづ》くばかり。
(唯《はい》、宜《よろ》しうございます、何事《なにごと》も仰有《おツしや》りつけは背《そむ》きますまい。)
 婦人《をんな》は言下《ごんか》に打解《うちと》けて、
(さあ/\汚《きたな》うございますが早《はや》く此方《こちら》へ、お寛《くつろ》ぎなさいまし、然《さ》うしてお洗足《せんそく》を上《あ》げませうかえ。)
(いえ、其《それ》には及《およ》びませぬ、雑巾《ざうきん》をお貸《か》し下《くだ》さいまし。あゝ、それからもし其《そ》のお雑巾《ざうきん》次手《ついで》にづツぷりお絞《しぼ》んなすつて下《くだ》さると助《たすか》ります、途中《とちう》で大変《たいへん》な目《め》に逢《あ》ひましたので体《からだ》を打棄《うつちや》りたいほど気味《きみ》が悪《わる》うございますので、一ツ背中《せなか》を拭《ふ》かうと存《ぞん》じますが恐入《おそれい》りますな。)
(然《さ》う、汗《あせ》におなりなさいました、嘸《さ》ぞまあ、お暑《あつ》うござんしたでせう、お待《ま》ちなさいまし、旅籠《はたご》へお着《つ》き遊《あそ》ばして湯《ゆ》にお入《はい》りなさいますのが、旅《たび》するお方《かた》には何《なに》より御馳走《ごちそう》だと申《まを》しますね、湯《ゆ》どころか、お茶《ちや》さへ碌《ろく》におもてなしもいたされませんが、那《あ》の、此《こ》の裏《うら》の崖《がけ》を下《お》りますと、綺麗《きれい》な流《ながれ》がございますから一|層《そう》其《それ》へ行《い》らつしやツてお流《なが》しが宜《よ》うございませう、)
 聞《き》いただけでも飛《とん》でも行《ゆ》きたい。
(えゝ、其《それ》は何《なに》より結構《けつこう》でございますな。)
(さあ、其《それ》では御案内《ごあんない》申《まを》しませう、どれ、丁度《ちやうど》私《わたし》も米《こめ》を磨《と》ぎに参《まゐ》ります。)と件《くだん》の桶《をけ》を小脇《こわき》に抱《かゝ》へて、椽側《えんがは》から、藁草履《わらぞうり》を穿《は》いて出《で》たが、屈《かゞ》んで板椽《いたえん》の下《した》を覗《のぞ》いて、引出《ひきだ》したのは一|足《そく》の古下駄《ふるげた》で、かちりと合《あ》はして埃《ほこり》を払《はた》いて揃《そろ》へて呉《く》れた。
(お穿《は》きなさいまし、草鞋《わらじ》は此処《こゝ》にお置《お》きなすつて、)
 私《わし》は手《て》をあげて一|礼《れい》して、
(恐入《おそれい》ります、これは何《ど》うも、)
(お泊《と》め申《まを》すとなりましたら、あの、他生《たしやう》の縁《えん》とやらでござんす、あなた御遠慮《ごゑんりよ》を遊《あそ》ばしますなよ。)先《ま》づ恐《おそ》ろしく調子《てうし》が可《い》いぢやて。」

         第十二

「(さあ、私《わたし》に跟《つ》いて此方《こちら》へ、)と件《くだん》の米磨桶《こめとぎをけ》を引抱《ひツかゝ》へて手拭《てぬぐひ》を細《ほそ》い帯《おび》に挟《はさ》んで立《た》つた。
 髪《かみ》は房《ふツさ》りとするのを束《たば》ねてな、櫛《くし》をはさんで笄《かんざし》で留《と》めて居《ゐ》る、其《そ》の姿《すがた》の佳《よ》さといふてはなかつた。
 私《わし》も手早《てばや》く草鞋《わらじ》を解《と》いたから、早速《さツそく》古下駄《ふるげた》を頂戴《ちやうだい》して、椽《えん》から立《た》つ時《とき》一寸《ちよいと》見《み》ると、それ例《れい》の白痴殿《ばかどの》ぢや。
 同《おな》じく私《わし》が方《かた》をぢろりと見《み》たつけよ、舌不足《したたらず》が饒舌《しやべ》るやうな、愚《ぐ》にもつかぬ声《こゑ》を出《だ》して、
(姉《ねえ》や
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