人《ふたり》して、其時《そのとき》の婦人《をんな》が裸体《はだか》になつて、私《わし》が背中《せなか》へ呼吸《いき》が通《かよ》つて、微妙《びめう》な薫《かほり》の花《はな》びらに暖《あたゝか》に包《つゝ》まれたら、其《その》まゝ命《いのち》が失《う》せても可《い》い!
 瀧《たき》の水《みづ》を見《み》るにつけても耐《た》へ難《がた》いのは其事《そのこと》であつた、いや、冷汗《ひやあせ》が流《なが》れますて。
 其上《そのうへ》、もう気《き》がたるみ、筋《すぢ》が弛《ゆる》んで、早《は》や歩行《ある》くのに飽《あき》が来《き》て喜《よろこ》ばねばならぬ人家《じんか》が近《ちかづ》いたのも、高《たか》がよくされて口《くち》の臭《くさ》い婆《ばあ》さんに渋茶《しぶちや》を振舞《ふるま》はれるのが関《せき》の山《やま》と、里《さと》へ入《い》るのも厭《いや》になつたから、石《いし》の上《うへ》へ膝《ひざ》を懸《か》けた、丁度《ちやうど》目《め》の下《した》にある瀧《たき》ぢやつた、これがさ、後《あと》に聞《き》くと女夫瀧《めうとたき》と言《い》ふさうで。
 真中《まんなか》に先《ま》づ鰐鮫《わにざめ》が口《くち》をあいたやうな尖《さき》のとがつた黒《くろ》い大巌《おほいは》が突出《つきで》て居《ゐ》ると、上《うへ》から流《なが》れて来《く》る颯《さツ》と瀬《せ》の早《はや》い谷川《たにがは》が、之《これ》に当《あた》つて両《ふたつ》に岐《わか》れて、凡《およ》そ四|丈《ぢやう》ばかりの瀧《たき》になつて哄《どツ》と落《お》ちて、又《また》暗碧《あんぺき》に白布《しろぬの》を織《お》つて矢《や》を射《ゐ》るやうに里《さと》へ出《で》るのぢやが、其《その》巌《いは》にせかれた方《はう》は六|尺《しやく》ばかり、之《これ》は川《かは》の一|巾《はゞ》を裂《さ》いて糸《いと》も乱《みだ》れず、一|方《ぱう》は巾《はゞ》が狭《せま》い、三|尺《じやく》位《ぐらゐ》、この下《した》には雑多《ざツた》な岩《いは》が並《なら》ぶと見《み》えて、ちら/\ちら/\と玉《たま》の簾《すだれ》を百千《ひやくせん》に砕《くだ》いたやう、件《くだん》の鰐鮫《わにざめ》の巌《いは》に、すれつ、縺《もつ》れつ。」

         第二十五

「唯《たゞ》一|筋《すぢ》でも岩《いは》を越《こ》して男瀧《をたき》に縋《すが》りつかうとする形《かたち》、それでも中《なか》を隔《へだ》てられて末《すゑ》までは雫《しづく》も通《かよ》はぬので、揉《も》まれ、揺《ゆ》られて具《つぶ》さに辛苦《しんく》を嘗《な》めるといふ風情《ふぜい》、此《こ》の方《はう》は姿《すがた》も窶《やつ》れ容《かたち》も細《ほそ》つて、流《なが》るゝ音《おと》さへ別様《べつやう》に、泣《な》くか、怨《うら》むかとも思《おも》はれるが、あはれにも優《やさ》しい女瀧《めだき》ぢや。
 男瀧《をだき》の方《はう》はうらはらで、石《いし》を砕《くだ》き、地《ち》を貫《つらぬ》く勢《いきほひ》、堂々《だう/\》たる有様《ありさま》ぢや、之《これ》が二つ件《くだん》の巌《いは》に当《あた》つて左右《さいう》に分《わか》れて二|筋《すぢ》となつて落《お》ちるのが身《み》に浸《し》みて、女瀧《めだき》の心《こゝろ》を砕《くだ》く姿《すがた》は、男《をとこ》の膝《ひざ》に取《とり》ついて美女《びぢよ》が泣《な》いて身《み》を震《ふる》はすやうで、岸《きし》に居《ゐ》てさへ体《からだ》がわなゝく、肉《にく》が跳《をど》る。況《ま》して此《こ》の水上《みなかみ》は、昨日《きのふ》孤家《ひとつや》の婦人《をんな》と水《みづ》を浴《あ》びた処《ところ》と思《おも》ふと、気《き》の精《せい》か其《そ》の女瀧《めだき》の中《なか》に絵《ゑ》のやうな彼《か》の婦人《をんな》の姿《すがた》が歴々《あり/\》、と浮《う》いて出《で》ると巻込《まきこ》まれて、沈《しづ》んだと思《おも》ふと又《また》浮《う》いて、千筋《ちすぢ》に乱《みだ》るゝ水《みづ》とゝもに其《そ》の膚《はだへ》が粉《こ》に砕《くだ》けて、花片《はなびら》が散込《ちりこ》むやうな。あなやと思《おも》ふと更《さら》に、もとの顔《かほ》も、胸《むね》も、乳《ちゝ》も、手足《てあし》も全《まツた》き姿《すがた》となつて、浮《う》いつ沈《しづ》みつ、ぱツと刻《きざ》まれ、あツと見《み》る間《ま》に又《また》あらはれる。私《わし》は耐《たま》らず真逆《まツさかさま》に瀧《たき》の中《なか》へ飛込《とびこ》んで、女瀧《めたき》を確《しか》と抱《だ》いたとまで思《おも》つた。気《き》がつくと男瀧《をたき》の方《はう》はどう/\と地響《ぢひゞき》打《う》たせて、山彦《やまびこ》
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