《おと》を何処《どこ》かで聞《き》きます。貴僧《あなた》は此方《こちら》へ被入《いら》つしやる道《みち》でお心着《こゝろづ》きはなさいませんかい。)
 然《さ》ればこそ山蛭《やまびる》の大藪《おほやぶ》へ入《はい》らうといふ少《すこ》し前《まへ》から其《そ》の音《おと》を。
(彼《あれ》は林《はやし》へ風《かぜ》の当《あた》るのではございませんので?)
(否《いえ》、誰《たれ》でも然《さ》う申《まを》します那《あ》の森《もり》から三|里《り》ばかり傍道《わきみち》へ入《はい》りました処《ところ》に大瀧《おほたき》があるのでございます、其《そ》れは/\日本一《にツぽんいち》ださうですが路《みち》が嶮《けは》しうござんすので、十|人《にん》に一人《ひとり》参《まゐ》つたものはございません。其《そ》の瀧《たき》が荒《あ》れましたと申《まを》しまして丁度《ちやうど》今《いま》から十三|年《ねん》前《まへ》、可恐《おそろ》しい洪水《おほみづ》がございました、恁麼《こんな》高《たか》いところまで川《かは》の底《そこ》になりましてね、麓《ふもと》の村《むら》も山《やま》の家《いへ》も残《のこ》らず流《なが》れて了《しま》ひました。此《こ》の上《かみ》の洞《ほら》もはじめは二十|軒《けん》ばかりあつたのでござんす、此《こ》の流《なが》れも其時《そのとき》から出来《でき》ました、御覧《ごらん》なさいましな、此《こ》の通《とほ》り皆《みな》石《いし》が流《なが》れたのでございますよ。)
 婦人《をんな》は何時《いつ》かもう米《こめ》を精《しら》げ果《は》てゝ、衣紋《えもん》の乱《みだ》れた、乳《ち》の端《はし》もほの見《み》ゆる、膨《ふく》らかな胸《むね》を反《そ》らして立《た》つた、鼻《はな》高《たか》く口《くち》を結《むす》んで目《め》を恍惚《うつとり》と上《うへ》を向《む》いて頂《いたゞき》を仰《あふ》いだが、月《つき》はなほ半腹《はんぷく》の其《そ》の累々《るゐ/\》たる巌《いはほ》を照《て》らすばかり。
(今《いま》でも恁《か》うやつて見《み》ますと恐《こは》いやうでございます。)と屈《かゞ》んで二の腕《うで》の処《ところ》を洗《あら》つて居《ゐ》ると。
(あれ、貴僧《あなた》、那様《そんな》行儀《ぎやうぎ》の可《い》いことをして被在《ゐら》しつてはお召《めし》が濡《ぬ》れま
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