ばいやく》の身《み》の上《うへ》で。
まさかに聞《き》いたほどでもあるまいが、其《それ》が本当《ほんたう》ならば見殺《みごろし》ぢや、何《ど》の道《みち》私《わたし》は出家《しゆつけ》の体《からだ》、日《ひ》が暮《く》れるまでに宿《やど》へ着《つ》いて屋根《やね》の下《した》に寝《ね》るには及《およ》ばぬ、追着《おツつ》いて引戻《ひきもど》して遣《や》らう。罷違《まかりちが》ふて旧道《きうだう》を皆《みな》歩行《ある》いても怪《け》しうはあるまい、恁《か》ういふ時候《じこう》ぢや、狼《おほかみ》の春《しゆん》でもなく、魑魅魍魎《ちみまうりやう》の汐《しほ》さきでもない、まゝよ、と思《おも》ふて、見送《みおく》ると早《は》や親切《しんせつ》な百姓《ひやくしやう》の姿《すがた》も見《み》えぬ。
(可《よ》し。)
思切《おもひき》つて坂道《さかみち》に取《と》つて懸《かゝ》つた、侠気《をとこぎ》があつたのではござらぬ、血気《けつき》に逸《はや》つたでは固《もと》よりない、今《いま》申《まを》したやうではずつと最《も》う悟《さと》つたやうぢやが、いやなか/\の憶病者《おくびやうもの》、川《かは》の水《みづ》を飲《の》むのさへ気《き》が怯《ひ》けたほど生命《いのち》が大事《だいじ》で、何故《なぜ》又《また》と謂《い》はつしやるか。
唯《たゞ》挨拶《あいさつ》をしたばかりの男《をとこ》なら、私《わし》は実《じつ》の処《ところ》、打棄《うつちや》つて置《お》いたに違《ちが》ひはないが、快《こゝろよ》からぬ人《ひと》と思《おも》つたから、其《その》まゝに見棄《みす》てるのが、故《わざ》とするやうで、気《き》が責《せ》めてならなんだから、」
と宗朝《しうてう》は矢張《やツぱり》俯向《うつむ》けに床《とこ》に入《はい》つたまゝ合掌《がツしやう》していつた。
「其《それ》では口《くち》でいふ念仏《ねんぶつ》にも済《す》まぬと思《おも》ふてさ。」
第六
「さて、聞《き》かつしやい、私《わし》はそれから檜《ひのき》の裏《うら》を抜《ぬ》けた、岩《いは》の下《した》から岩《いは》の上《うへ》へ出《で》た、樹《き》の中《なか》を潜《くゞ》つて草深《くさふか》い径《こみち》を何処《どこ》までも、何処《どこ》までも。
すると何時《いつ》の間《ま》にか今《いま》上《あが》
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