光籃
泉鏡花

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)田舎《いなか》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)、一|挺《ちょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)のそ/\
−−

 田舎《いなか》の娘であらう。縞柄《しまがら》も分らない筒袖《つつっぽ》の古浴衣《ふるゆかた》に、煮染《にし》めたやうな手拭《てぬぐい》を頬被《ほおかぶ》りして、水の中に立つたのは。……それを其《そ》のまゝに見えるけれど、如何《いか》に奇を好めばと云つても、女の形に案山子《かかし》を拵《こしら》へるものはない。
 盂蘭盆《うらぼん》すぎの良《い》い月であつた。風はないが、白露《しらつゆ》の蘆《あし》に満ちたのが、穂に似て、細流《せせらぎ》に揺れて、雫《しずく》が、青い葉、青い茎を伝《つたわ》つて、点滴《したたる》ばかりである。
 町を流るゝ大川《おおかわ》の、下《しも》の小橋《こばし》を、もつと此処《ここ》は下流に成る。やがて潟《かた》へ落ちる川口《かわぐち》で、此《こ》の田つゞきの小流《こながれ》との間《あいだ》には、一寸《ちょっと》高く築《きず》いた塘堤《どて》があるが、初夜《しょや》過ぎて町は遠し、村も静《しずま》つた。場末の湿地で、藁屋《わらや》の侘《わび》しい処《ところ》だから、塘堤一杯の月影も、破窓《やれまど》をさす貧《まずし》い台所の棚の明るい趣《おもむき》がある。
 遠近《おちこち》の森に棲《す》む、狐《きつね》か狸《たぬき》か、と見るのが相応《ふさわ》しいまで、ものさびて、のそ/\と歩行《ある》く犬さへ、梁《はり》を走る古鼠《ふるねずみ》かと疑はるゝのに――
[#ここから2字下げ]
ざぶり、   ざぶり、   ざぶ/\、   ざあ――
ざぶり、   ざぶり、   ざぶ/\、   ざあ――
[#ここで字下げ終わり]
 小豆《あずき》あらひと云ふ変化《へんげ》を想はせる。……夜中に洗濯の音を立てるのは、小流《こながれ》に浸つた、案山子《かかし》同様の其の娘だ。……
 霧《きり》の這《は》ふ田川《たがわ》の水を、ほの白《じろ》い、笊《ざる》で掻《か》き/\、泡沫《あわ》を薄青く掬《すく》ひ取つては、細帯《ほそおび》につけた畚《びく》の中へ、ト腰を捻《ひね》り状《ざま》に、ざあと、光に照らして移し込む。
[#ここから2字下げ]
ざぶり、   ざぶり、   ざぶ/\、   ざあ――
[#ここで字下げ終わり]
 おなじ事を繰返す。腰の影は蘆《あし》の葉に浮いて、さながら黒く踊るかと見えた。
 町の方から、がや/\と、婦《おんな》まじりの四五人の声が、浮いた跫音《あしおと》とともに塘堤《どて》をつたつて、風の留《とま》つた影燈籠《かげどうろう》のやうに近づいて、
「何だ、何だ。」
「あゝ、行《や》つてるなあ。」
 と、なぞへに蘆の上から、下のその小流《こながれ》を見て、一同に立留《たちどま》つた。
「うまく行《や》るぜ。」
「真似をする処《ところ》は、狐か、狸だらうぜ。それ、お前によく似て居らあ。」
「可厭《いや》。」
 と甘たれた声を揚げて、男に摺寄《すりよ》つたのは少《わか》い女で。
「獺《かわうそ》だんべい、水の中ぢや。」
 と、いまの若いのの声に浮かれた調子で、面《つら》を渋黒《しぶくろ》くニヤ/\と笑つて、あとに立つたのが、のそ/\と出たのは、一|挺《ちょう》の艪《ろ》と、かんてらをぶら下げた年倍《としばい》な船頭である。
 此の唯《ただ》一つの灯《ともしび》が、四五人の真中へ入つたら、影燈籠《かげどうろう》は、再び月下に、其のまゝくる/\と廻るであらう。
[#ここから2字下げ]
ざぶり、   ざぶり、   ざぶ/\、   ざあ――
[#ここで字下げ終わり]
 髪を当世にした、濃い白粉《おしろい》の大柄の年増《としま》が、
「おい、姉《ねえ》さん。」
 と、肩幅広く、塘堤《どて》ぶちへ顕《あら》はれた。立女形《たておやま》が出たから、心得たのであらう、船頭め、かんてらの灯《ひ》を、其の胸のあたりへ突出《つきだ》した。首抜《くびぬき》の浴衣《ゆかた》に、浅葱《あさぎ》と紺《こん》の石松《いしまつ》の伊達巻《だてまき》ばかり、寝衣《ねまき》のなりで来たらしい。恁《こ》う照《てら》されると、眉毛《まゆげ》は濃く、顔は大《おおき》い。此処《ここ》から余り遠くない、場末の某座《ぼうざ》に五日間の興行に大当りを取つた、安来節座中《やすぎぶしざちゅう》の女太夫《おんなたゆう》である。
 あとも一座で。……今夜、五日目の大入《おおいり》を刎《は》ねたあとを、涼《すず》みながら船を八葉潟《やつばがた》へ浮べようとして出て来たのだが、しこみものの鮨《すし》、煮染《にしめ》、罎《びん》づめの酒で月を見るより、心太《ところてん》か安いアイスクリイムで、蚊帳《かや》で寝た方がいゝ、あとの女たちや、雑用宿《ぞうようやど》を宿場《しゅくば》へ浮《うか》れ出《だ》す他《ほか》の男どもは誰も来ない。また来ない方の人数《にんず》が多かつた。
「おい、お前《まい》さん。」
 と、太夫《たゆう》の年増《としま》は、つゞけて鷹揚《おうよう》に、娘を呼んだ。
 流《ながれ》の案山子《かかし》は、……ざぶりと、手を留《と》めた。が、少しは気取りでもする事か、棒杭《ぼうぐい》に引《ひっ》かゝつた菜葉《なっぱ》の如く、たくしあげた裾《すそ》の上へ、据腰《すえごし》に笊《ざる》を構へて、頬被《ほおかぶ》りの面《おもて》を向けた。目鼻立《めはなだち》は美しい。で、濡《ぬ》れ/\として艶《つや》ある脛《はぎ》は、蘆間《あしま》に眠る白鷺《しらさぎ》のやうに霧を分けて白く長かつた。
「感心――なか/\うまいがね、少し手が違つてるよ。……さん子さん、一寸《ちょっと》唄《うた》つてお遣《や》り。村方《むらかた》で真似をするのに、いゝ手本だ。……まうけさして貰《もら》つた礼心《れいごころ》に、ちゃんとした[#「ちゃんとした」はママ]処《ところ》を教へてあげよう。置土産《おきみやげ》さ、さん子さん、お唄ひよ。」
「可厭《いや》、獺《かわうそ》に。……気味が悪いわ、口うつしに成るぢやないの。」
 と少《わか》いのが首とともに肩を振る。
「獺に教へれば、芸の威光さ。ぢやあ、私が唄ひながら。――可《い》いかい、――安来《やすぎ》千軒《せんげん》名の出た処《ところ》……」
 もう尤《もっと》も微酔《ほろよい》機嫌で、
「さあ、遣《や》つて御覧よ。……鰌《どじょう》すくひさ。」
「ほゝゝ。」
 と娘は唯《ただ》笑つた。
 月にも、霧にも、流《ながれ》の音にも、一座の声は、果敢《はか》なき蛾《ひとりむし》のやうに、ちら/\と乱るゝのに、娘の笑声《わらいごえ》のみ、水に沈んで、月影の森に遠く響いた。
「一寸《ちょっと》、お遣りつたら。」
「ほゝゝ。」
「笑つてないでさ、可《い》いかい。――鰌すくひの骨髄と言ふ処《ところ》を教へるからよ。」
「あれ、私はな、鰌すくふのでござんせぬ。」
「おや、何をしてるんだね。」
「お月様の影を掬《すく》ひますの。」
 と空を仰いで言つた。蘆の葉の露《つゆ》は輝いたのである。
「月影を……」
「あはゝ、などと言つて、此奴《こいつ》、色男と共稼ぎに汚穢《おわい》取《と》りの稽古《けいこ》で居やがる。」
 と色の黒い小男が笑出《わらいだ》すと、角面《かくづら》の薄化粧した座長、でつぷりした男が、
「月を汲《く》んで何《なん》にするんだ。」
「はあ、暗《やみ》の夜《よ》の用心になあ。」
 此奴《こいつ》は薄馬鹿《うすばか》だと思つたさうである。後《あと》での話だが――些《ちょっ》と狐《きつね》が憑《つ》いて居るとも思つたさうで。……そのいづれにせよ、此の容色《きりょう》なら、肉の白さだけでも、客は引ける。金まうけと、座長の角面はさつそくに思慮《ふんべつ》した。且《か》つ誘拐《いざな》ふに術《て》は要《い》らない。
「分つた/\、えらいよお前《まい》は――暗夜《やみよ》の用心に月の光を掬《すく》つて置くと、笊《ざる》の目から、ざあ/\洩《も》ると、畚《びく》から、ぽた/\流れると、ついでに愛嬌《あいきょう》はこぼれると、な。……此の位世の中に理窟《りくつ》の分つた事はねえ。感心だ。――処《ところ》でな、おい、姉《あね》え。おなじ月影を汲むなら、そんなぢよろ/\水でなしに、潟《かた》へ出て、そら、ほつと霧のかゝつた、あの、其処《そこ》の山ほど大きく汲みな。一所《いっしょ》に来な、連れて行くぜ。」
 女太夫《おんなたゆう》に目くばせしながら、
「俺たちは、その月を見に潟へ出るんだ。――一所に来なよ、御馳走《ごちそう》も、うんとあらあ。」
「ほう、来るか/\、猫よりもおとなしい。いまのまに出世をするぜ、いゝ娘《こ》だ、いゝ娘《こ》だ。」
 と黒い小男が囃《はや》した。
 娘は、もう蘆《あし》を分けて出たのである。露《つゆ》にしつとりと萎《しな》へた姿も、水には濡《ぬ》れて居なかつた。
 すぐ川堤《かわづつみ》を、十歩《とあし》ばかり戻り気味に、下へ、大川《おおかわ》へ下口《おりくち》があつて、船着《ふなつき》に成つて居る。時に三艘《さんぞう》ばかり流《ながれ》に並んで、岸の猫柳に浮いて居た。
(三界万霊《さんがいまんりょう》、諸行無常《しょぎょうむじょう》。)
 鼠《ねずみ》にぼやけた白い旗が、もやひに搦《から》んで、ひよろ/\と漾《ただよ》ふのが見えた。
「おや/\、塔婆《とうば》も一本、流れ灌頂《かんちょう》と云ふ奴だ。……大変なものに乗せるんだな。」
 座長が真《まっ》さきにのりかゝつて、ぎよつとした。三艘《さんぞう》のうちの、一番|大形《おおがた》に見える真中の船であつた。
 が、船《ふな》べりを舐《な》めて這《は》ふやうに、船頭がかんてらを入れたのは、端の方の古船《ふるぶね》で。
「旦那《だんな》、此方《こっち》だよ。……へい、其《それ》は流れ灌頂ではござりましねえ。昨日《きのう》、盂蘭盆《うらぼん》で川施餓鬼《かわせがき》がござりましたでや。」
「流れ灌頂と兄弟分だ。」
「可厭《いや》だわねえ。」
「一蓮托生《いちれんたくしょう》と、さあ、皆《みんな》乗つたか。」
 と座長が捌《さば》く。
「小父《おじ》さん、船幽霊《ふなゆうれい》は出ないこと。」
 と若い女が、ぢやぶ/\、ぢやぶ/\と乗出《のりだ》す中に、怯《おび》えた声する。
 兀《は》げたのだらう。月に青道心《あおどうしん》のやうで、さつきから黙《だんま》り家《や》の老人《としより》が、
「船幽霊は大海《だいかい》のものだ。潟《かた》にはねえなあ。」
「あれば生擒《いけど》つて銭儲《ぜにもう》けだ。」
 ぎい、ちよん、ぎい、ちよんと、堤《どて》の草に蟋蟀《きりぎりす》の紛れて鳴くのが、やがて分れて、大川に唯《ただ》艪《ろ》の音のみ、ぎい、と響く。ぎよ、ぎよツと鳴くのは五位鷺《ごいさぎ》だらう。
「なむあみだぶつ。あゝ、いゝ月だ。」
 と寂《さび》しく掉《ふ》つた、青道心の爺《じじい》の頭は、ぶくりと白茄子《しろなす》が浮いたやうで、川幅は左右へ展《ひら》け、船は霧に包まれた。
「変な、月のほめやうだな、はゝゝ。」
 と座長は笑ひ消しつつ、
「おい、姉《ねえ》や、何《ど》うした。」
 と言ふ。水しやくひの娘は、剥《む》いた玉子《たまご》を包みあへぬ、あせた緋金巾《ひがなきん》を掻合《かきあわ》せて、鵜《う》が赤い魚《うお》を銜《くわ》へたやうに、舳《みよし》にとぼんと留《とま》つて薄黒い。通例だと卑下をしても、あとから乗つて艫《とも》の方にあるべき筈《はず》を、勝手を知つた土地のものの所為《せい》だらう。出《で》しなに、川施餓鬼《かわせがき》で迷つた時、船頭が入れたかんてらの火より前《さき》に乗つて、舳にちよこなんと控へたのであつた。
 実は、此《これ
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング