》は心すべき事だつた。……船につくあやかしは、魔の影も、鬼火も、燃ゆる燐《りん》も、可恐《おそろし》き星の光も、皆、ものの尖端《せんたん》へ来て掛《かか》るのが例だと言ふから。
やがて、其の験《しるし》がある。
時に、さすがに、娘気《むすめぎ》の慇懃心《いんぎんごころ》か、あらためて呼ばれたので、頬被《ほおかぶ》りした手拭《てぬぐい》を取つて、俯《うつ》むいた。
「あら、きれい。」
「まあ、光るわねえ。」
安来《やすぎ》ぶしの婦《おんな》は、驚駭《おどろき》の声を合せた。
「一寸《ちょっと》、何、其の簪《かんざし》は。」
銀杏返《いちょうがえし》もぐしや/\に、掴《つか》んで束《たば》ねた黒髪に、琴柱形《ことじがた》して、晃々《きらきら》と猶《な》ほ月光に照映《てりか》へる。
「お見せ。」……とも言はず、女太夫《おんなたゆう》が、間近《まぢか》から手を伸《のば》すと、逆らふ状《さま》もなく、頬を横に、鬢《びん》を柔順《すなお》に、膝《ひざ》の皿に手を置いて、
「ほゝゝゝゝ。」
と、薄馬鹿《うすばか》が馬鹿笑《ばかわらい》に笑つたのである。
年増《としま》は思はず、手を引いて、
「えゝ、何だねえ、気味の悪い。」
生暖《なまぬる》い、腥《なまぐさ》い、いやに冷《つめた》く、かび臭い風が、颯《さっ》と渡ると、箕《み》で溢《こぼ》すやうに月前《げつぜん》に灰汁《あく》が掛《かか》つた。
川は三《みっ》つの瀬を一つに、どんよりと落合《おちあ》つて、八葉潟《やつばがた》の波は、なだらかながら、八《やっ》つに打つ……星の洲《す》を埋《うず》んだ銀河が流れて漂渺《ひょうびょう》たる月界に入《い》らんとする、恰《あたか》も潟《かた》へ出口の処《ところ》で、その一陣の風に、曇ると見る間《ま》に、群《むらが》りかさなる黒雲《くろくも》は、さながら裾《すそ》のなき滝の虚空《こくう》に漲《みなぎ》るかと怪《あやし》まれ、暗雲《あんうん》忽《たちま》ち陰惨として、灰に血を交《ま》ぜた雨が飛んだ。
「船頭さん/\。」
「お船頭々々。」
と青坊主《あおぼうず》は、異変を恐れて、船頭に敬意を表した。
「苫《とま》があるで。」
「や、苫どころかい。」
「あれ、降つて来た、降つて来た。」
声を聞いて、飛ぶ鷺《さぎ》を想つたやうに、浪《なみ》の羽《はね》が高く煽《あお》る。
「着けろ、着けろ、早くつけてくれ。」
昼は潟魚《かたうお》の市《いち》も小さく立つ。――村の若い衆の遊び処《どこ》へ、艪数《ろかず》三十とはなかつたから、船の難はなかつた。が、堤尻《どてじり》を駈上《かけあが》つて、掛茶屋《かけぢゃや》を、やゝ念入りな、間近《まぢか》な一《いち》ぜんめし屋へ飛込《とびこ》んだ時は、此の十七日の月の気勢《けはい》も留《と》めぬ、さながらの闇夜《あんや》と成つて、篠《しの》つく雨に風が荒《すさ》んだ。
侘《わび》しい電燈さへ、一点燭《いってんしょく》の影もない。
めし屋の亭主は、行燈《あんどう》とも、蝋燭《ろうそく》とも言はず、真裸《まっぱだか》で慌《あわ》て惑《まど》つて、
「お仏壇へ線香ぢや、線香ぢや。」
と、ふんどしを絞つて喚《わめ》いた。
恁《かか》る田舎《いなか》も、文明に馴《な》れて、近頃は……余分には蝋燭の用意もないのである。
「……然《そ》うだ、姉《あね》え。恁《こ》う言ふ時だ、掬《しゃく》つた月影は何《ど》うしたい。」
と、座長の角面《かくづら》がつゞけ状《ざま》に舌打《したうち》をしながら言つた。
「真個《ほんとう》だわ。」
「まつたくさ。」
太夫《たゆう》たちも声を合せた。
不思議に、蛍火《ほたるび》の消えないやうに、小さな簪《かんざし》のほのめくのを、雨と風と、人と水の香《か》と、入乱《いりみだ》れた、真暗《まっくら》な土間《どま》に微《かすか》に認めたのである。
「あゝ、うつかりして忘れて居ました。船へ置いて来た、取つて来ませう。」
「ついでに、重詰《じゅうづめ》を願ひてえ。一升罎《いっしょうびん》は攫《さら》つて来た。」
と黒男《くろおとこ》が、うは言《ごと》のやうに言ふ間《ま》もあらせず、
「やあ、水が来た、波が来た。……薄馬鹿《うすばか》が水に乗つて来た。」
と青坊主《あおぼうず》がひよろ/\と爪立《つまだ》つて逃げあるく。
「お仏壇ぢや、お仏壇ぢや、お仏壇へ線香ぢや。」
「はい、取つて来ましたよ。」
と言ふ、娘の手にした畚《びく》を溢《あふ》れて、湧《わ》く影は、青いさゝ蟹《がに》の群れて輝くばかりである。
「光を……月を……影を……今。」
と凜《りん》と言ふと、畚を取つて身構へた。向へる壁の煤《すす》も破《やれ》めも、はや、ほの明るく映さるゝそのたゞ中へ、袂《たもと》を払つてパツと投げた。間《ま》は一面に白く光つた、古畳《ふるだたみ》の目は一《ひと》つ一《びと》つ針を植ゑたやうである。
「あれ。」
「可恐《こわ》い、電《いなびかり》。」
と女たちは、入《はい》りもやらず、土間《どま》から框《かまち》へ、背《せな》、肩を橋にひれ伏した。
「ほゝゝ、可恐《こわ》いの?」
娘は静《しずか》に、其の壁に向つて立つと、指をしなやかに簪《かんざし》を取つた。照らす光明《こうみょう》に正《まさ》に視《み》る、簪は小さな斧《おの》であつた。
斧を取つて、唯《ただ》一面の光を、端から、丁《ちょう》と打ち、丁と削り、こと/\こと/\と敲《たた》くと、その削りかけは、はら/\と、光る柳の葉、輝く桂《かつら》の実にこぼれて、畳《たたみ》にしき、土間《どま》に散り、はた且《かつ》うつくしき工人の腰にまとひ、肩に乱れた。と見る/\風に従つて、皆消えつつ、やがて、一輪、寸毫《すんごう》を違《たが》へざる十七日の月は、壁の面《おもて》に掛《かか》つたのである。
残れる、其の柳、其の桂は、玉《たま》にて縫《ぬ》へる白銀《しろがね》の蓑《みの》の如く、腕《かいな》の雪、白脛《しらはぎ》もあらはに長く、斧を片手に、掌《てのひら》にその月を捧げて立てる姿は、潟《かた》も川も爪《つま》さきに捌《さば》く、銀河に紫陽花《あじさい》の花籠《はなかご》を、かざして立てる女神《じょしん》であつた。
顧《かえり》みて、
「ほゝゝ。」
微笑《ほほえ》むと斉《ひと》しく、姿は消えた。
壁の裏が行方《ゆくえ》であらう。その破目《やれめ》に、十七日の月は西に傾いたが、夜《よる》深く照りまさつて、拭《ぬぐ》ふべき霧もかけず、雨も風もあともない。
這《は》へる蔦《つた》の白露《しらつゆ》が浮いて、村遠き森が沈んだ。
皎々《こうこう》として、夏も覚えぬ。夜ふけのつゝみを、一行は舟を捨てて、鯰《なまず》と、鰡《ぼら》とが、寺詣《てらまいり》をする状《さま》に、しよぼ/\と辿《たど》つて帰つた。
[#ここから2字下げ]
ざぶり、 ざぶり、 ざぶ/\、 ざあ――
ざぶり、 ざぶり、 ざぶ/\、 ざあ――
[#ここで字下げ終わり]
「しいツ。」
「此処《ここ》だ……」
「先刻《さっき》の処《ところ》。」
と、声の下で、囁《ささや》きつれると、船頭が真先《まっさき》に、続いて青坊主《あおぼうず》が四《よ》つに這《は》つたのである。
――後《のち》に、一座の女たち――八人居た――楽屋一同、揃《そろ》つて、刃《は》を磨いた斧《おの》の簪《かんざし》をさした。が、夜《よる》寝《ね》ると、油、白粉《おしろい》の淵《ふち》に、藻《も》の乱るゝ如く、黒髪を散らして七転八倒《しちてんばっとう》する。
「痛い。」
「痛い。」
「苦しい。」
「痛いよう。」
「苦しい。」
唯《ただ》一人……脛《はぎ》すらりと、色白く、面長《おもなが》な、目の涼《すず》しい、年紀《とし》十九で、唄《うた》もふしも何《なん》にも出来ない、総踊《そうおど》りの時、半裸体に蓑《みの》をつけて、櫂《かい》をついてまはるばかりのあはれな娘のみ、斧《おの》を簪《かざ》して仔細ない。髪にきら/\と輝くきれいさ。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「苦楽」
1924(大正13)年5月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※初出時の表題は「鰌すくひ」です。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング