古狢
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)思えば可《い》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お花見|手拭《てぬぐい》

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(例)※[#「匸<扁」、第4水準2−3−48]
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「しゃッ、しゃッ、しゃあっ!……」
 寄席のいらっしゃいのように聞こえるが、これは、いざいざ、いでや、というほどの勢いの掛声と思えば可《い》い。
「しゃあっ! 八貫―ウん、八貫、八貫、八貫と十《と》ウ、九貫か、九貫と十ウだ、……十貫!」
 目の下およそ八寸ばかり、濡色の鯛《たい》を一枚、しるし半纏《ばんてん》という処を、めくら縞《じま》の筒袖《つつッぽ》を両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身《つりみ》に取って、尾を空に、向顱巻《むこうはちまき》の結びめと一所に、ゆらゆらと刎《は》ねさせながら、掛声でその量《めかた》を増すように、魚《うお》の頭《かしら》を、下腹から膝頭《ひざがしら》へ、じりじりと下ろして行くが、
「しゃッ、しゃッ。」
 と、腰を切って、胸を反《そ》らすと、再び尾から頭へ、じりじりと響《ひびき》を打たして釣下げる。これ、値を上げる寸法で。
「しゃッ、十貫十ウ、十貫二百、三百、三百ウ。」
 親仁《おやじ》の面《つら》は朱を灌《そそ》いで、その吻《くちばし》は蛸《たこ》のごとく、魚の鰭《ひれ》は萌黄《もえぎ》に光った。
「力は入るね、尾を取って頭を下げ下げ、段々に糶《せ》るのは、底力は入るが、見ていて陰気だね。」
 と黒い外套《がいとう》を着た男が、同伴《つれ》の、意気で優容《やさがた》の円髷《まるまげ》に、低声《こごえ》で云った。
「そう。でも大鯛をせるのには、どこでもああするのじゃアありません?……」
 人だちの背後《うしろ》から覗《のぞ》いていたのが、連立って歩き出して、
「……と言われると、第一、東京の魚河岸の様子もよく知らないで、お恥かしいよ。――ここで言っては唐突《だしぬけ》で、ちと飛離れているけれど、松江だね、出雲《いずも》の。……茶町という旅館《はたご》間近の市場で見たのは反対だっけ――今の……」
 外套の袖を手で掲げて、
「十貫、百と糶上《せりあ》げるのに、尾を下にして、頭を上へ上へと上げる。……景気もよし、見ているうちに値が出来たが、よう、と云うと、それ、その鯛を目の上へ差上げて、人の頭越しに飜然《ひらり》と投げる。――処をすかさず受取るんだ、よう、と云って後《うしろ》の方で。……威勢がいい。それでいて、腰の矢立はここのも同じだが、紺の鯉口《こいぐち》に、仲仕とかのするような広い前掛を捲《ま》いて、お花見|手拭《てぬぐい》のように新しいのを頸《えり》に掛けた処なぞは、お国がら、まことに大どかなものだったよ。」
「陽気ね、それは。……でも、ここは近頃の新開ですもの。お魚はほんのつけたりで、おもに精進ものの取引をするんですよ。そういっては、十貫十ウの、いまの親仁に叱《しか》られるかも知れないけれど、皆《みんな》が蓮根市場《れんこんいちば》というくらいなんですわ。」
「成程、大きに。――しかもその実、お前さんと……むかしの蓮池《はすいけ》を見に、寄道をしたんだっけ。」
 と、外套は、洋杖《ステッキ》も持たない腕を組んだ。
 話の中には――この男が外套を脱ぐ必要もなさそうだから、いけぞんざいだけれども、懇意ずく、御免をこうむって、外套氏としておく。ただ旅客でも構わない。
 が、私のこの旅客は、実は久しぶりの帰省者であった。以前にも両三度聞いた――渠《かれ》の帰省談の中の同伴《つれ》は、その容色《きりょう》よしの従姉《いとこ》なのであるが、従妹はあいにく京の本山へ参詣《おまいり》の留守で、いま一所なのは、お町というその娘……といっても一度縁着いた出戻りの二十七八。で、親まさりの別嬪《べっぴん》が冴返《さえかえ》って冬空に麗《うらら》かである。それでも、どこかひけめのある身の、縞《しま》のおめしも、一層なよやかに、羽織の肩も細《ほっそ》りとして、抱込《かかえこ》んでやりたいほど、いとしらしい風俗《ふう》である。けれども家業柄――家業は、土地の東の廓《くるわ》で――近頃は酒場か、カフェーの経営だと、話すのに幅が利くが、困った事にはお茶屋、いわゆるおん待合だから、ちと申憎い、が、仕方がない。それだけにまた娘の、世馴《よな》れて、人見知りをしない様子は、以下の挙動《ふるまい》で追々《おいおい》に知れようと思う。
 ちょうどいい。帰省者も故郷へ錦《にしき》ではない。よって件《くだん》の古外套で、映画の台本や、仕入ものの大衆向で、どうにか世渡りをしているのであるから。
「陽気も陽気だし、それに、山に包まれているんじゃない、その市場のすぐ見通しが、大きな湖だよ、あの、有名な宍道湖《しんじこ》さ。」
「あら、山の中だって、おじさん、こちらにも、海も、湖も、大きなのがありますわ。」
 湖は知らず、海に小さなのといっては断じてあるまい。何しろ、話だけでも東京が好きで、珍らしく土地自慢をしない娘も、対手《あいて》が地方だけに、ちょっと反感を持ったらしい。
 いかにも、湖は晃々《きらきら》と見える。が、水が蒼穹《おおぞら》に高い処に光っている。近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこの辺《あたり》は、麓《ふもと》の迫る裾《すそ》になり、遠山は波濤《はとう》のごとく累《かさ》っても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山の端《は》は、巨《おお》きな猪《いのしし》の横に寝た態《さま》に似た、その猪の鼻と言おう、中空《なかぞら》に抽出《ぬきんで》た、牙《きば》の白いのは湖である。丘を隔てて、一条《ひとすじ》青いのは海である。
 その水の光は、足許《あしもと》の地《つち》に影を映射《うつ》して、羽織の栗梅《くりうめ》が明《あかる》く澄み、袖の飛模様も千鳥に見える。見ると、やや立離れた――一段高く台を蹈《ふ》んで立った――糶売《せりうり》の親仁は、この小春日の真中《まんなか》に、しかも夕月を肩に掛けた銅像に似ていた。
「あの煙突が邪魔だな。」
 ここを入って行きましょうと、同伴《つれ》が言う、私設の市場の入口で、外套氏は振返って、その猪《しし》の鼻の山裾《やますそ》を仰いで言った。
「あれ、温泉よ。」
「温泉?」
「いま通って来たじゃありませんか、おじさん。」
「ああ、あの紺屋の物干場と向い合った……蟋蟀《こおろぎ》がないていた……」
 蟋蟀は……ここでも鳴く。
「その紺屋だって、あったのは昔ですわ。垣も何にもなくなって、いまは草場《くさっぱ》でしたわね。」
「そうだっけな――実は、あのならびに一人、おなじ小学校の組の友だちが居てね。……八田なにがし……」
「そのお飯粒《まんまつぶ》で蛙を釣って遊んだって、御執心の、蓮池の邸《やしき》の方とは違うんですか。」
 鯛はまだ値が出来ない。山の端《は》の薄《すすき》に顱巻《はちまき》を突合せて、あの親仁はまた反った。
「違うんだよ。……何も更《あらた》めて名のるほどの事もないんだけれど、子供ッて妙なもので、まわりに田があるから、ああ八田だ、それにしても八ツはない。……そんなことを独り合点した事も思出しておかしいし、余り様子が変っているので、心細いようにもなって、ついうっかりして――活動写真の小屋が出来た……がらんとしている、不景気だな、とぎょっとして、何、昼間は休みなのだろう、にしておいたよ。そういえば煙突も真正面で、かえって、あんなに高く見えなかったもんだから、明《あかり》取りかと思ったっけ。……映画の明取りはちと変だね。どうかしている。」
 と笑いながら、
「そうかい、温泉かい……こんな処に。」
「沸《わか》すんですよ……ただの水を。」
「ただの水はよかった、成程。」
「でも、温泉といった方が景気がいいからですわ。そしてね、おじさん、いまの、あれ、狢《むじな》の湯っていうんですよ。」
「狢の湯?……」
 と同伴《つれ》の顔を見た時は、もうその市場の裡《なか》を半ば過ぎていた。まだ新しく、ほんの仮設らしい、通抜けで、ただ両側に店が並んだが、二三個処うつろに穴があいて、なぜか箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》の一つ足りないような気がする。今来た入口《はいりぐち》に、下駄屋と駄菓子屋が向合って、駄菓子屋に、ふかし芋と、茹《ゆ》でた豌豆《えんどう》を売るのも、下駄屋の前ならびに、子供の履《はき》ものの目立って紅《あか》いのも、もの侘《わび》しい。蒟蒻《こんにゃく》の桶《おけ》に、鮒《ふな》のバケツが並び、鰌《どじょう》の笊《ざる》に、天秤を立掛けたままの魚屋の裏羽目からは、あなめあなめ空地の尾花が覗《のぞ》いている……といった形。
 ――あとで地の理をよく思うと、ここが昔の蓮池の口もとだったのだそうである。――
「皆その御眷属《ごけんぞく》が売っているようだ。」
「何? おじさん。」
「いえね、その狢の湯の。」
「あら聞こえると悪ござんすわ。」
 とたしなめる目づかいが、つい横の酒類販売店の壜《びん》に、瞳が蝶のようにちらりと映って、レッテルの桜に白い頬がほんのりする。
「決して悪く云ったのじゃない。……これで地口行燈《じぐちあんどん》が五つ六つあってごらん。――横露地の初午《はつうま》じゃないか。お祭のようだと祝ったんだよ。」
「そんな事……お祭だなんのといって、一口飲みたくなったんじゃあ、ありません? おっかさん(外套氏の従姉をいう)ならですけど、可厭《いや》よ、私、こんな処で、腰掛けて一杯なんぞ。」
「大丈夫。いくら好きだって、蕃椒《とうがらし》では飲めないよ。」
 と言った。
 市場を出た処の、乾物屋と思う軒に、真紅《まっか》な蕃椒が夥多《おびただ》しい。……新開ながら老舗《しにせ》と見える。わかめ、あらめ、ひじきなど、磯《いそ》の香も芬《ぷん》とした。が、それが時雨でも誘いそうに、薄暗い店の天井は、輪にかがって、棒にして、揃えて掛けた、車麩《くるばぶ》で一杯であった。
「見事なものだ。村芝居の天井に、雨車を仕掛けた形で、妙に陰気だよ。」
 串戯《じょうだん》ではない。日向《ひなた》に颯《さっ》と村雨が掛《かか》った、薄《すすき》の葉摺《はず》れの音を立てて。――げに北国の冬空や。
 二人は、ちょっとその軒下へ入ったが、
「すぐ晴れますわ、狐の嫁入よ。」
 という、斜《ななめ》に見える市場の裏羽目に添って、紅蓼《べにたで》と、露草の枯れがれに咲いて残ったのが、どちらがその狐火《きつねび》の小提灯《こじょうちん》だか、濡々《ぬれぬれ》と灯《とも》れて、尾花に戦《そよ》いで……それ動いて行く。
「そうか、私はまた狐の糸工場かと思った。雨あしの白いのが、天井の車麩から、ずらずらと降って来るようじゃあないか。」
「可厭《いや》、おじさん。」
 と捩《よ》れるばかり、肩を寄せて、
「気味が悪い。」
「じゃあ、言直そう。ここは蓮池のあとらしいし、この糸で曼陀羅《まんだら》が織れよう。」
「ええ、だって、極楽でも、地獄でも、その糸がいけないの。」
「糸が不可《いけな》いとは。」
「……だって、椎《しい》の木婆さんが、糸車を廻す処ですもの、小豆洗《あずきあらい》ともいうんですわ。」
 後前《あとさき》を見廻して、
「それはね、城のお殿様の御寵愛の、その姉さんだったと言いましてね。むかし、魔法を使うように、よく祈りのきいた、美しい巫女《みこ》がそこに居て、それが使った狢だとも言うんですがね。」
 あなたは知らないのか、と声さえ憚《はばか》ってお町が言った。――この乾物屋と直角に向合《むかいあ》って、蓮根《れんこん》の問屋がある。土間を広々と取り、奥を深く、森《しん》と暗い、大きな家で、ここを蓮根市《はすいち》とも呼ぶのは、その故だという。屋の棟を、うしろ下りに、山の中腹と思う位置に、一朶《いちだ》
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