の黒雲の舞下ったようなのが、年数を知らない椎の古木の梢《こずえ》である。大昔から、その根に椎の樹|婆叉《ばばしゃ》というのが居て、事々に異霊|妖変《ようへん》を顕《あら》わす。徒然な時はいつも糸車を廻わしているのだそうである。もともと私どもの、この旅客は、その小学校友だちの邸あとを訪《と》うために来た。……その時分には遊びに往来《ゆきき》もしたろうものを、あの、椎の樹婆叉を知らないのかと、お町が更に怪しんで言うのであった。が、八ツや十ウのものを、わざと親たちは威《おど》しもしまい。……近所に古狢《ふるむじな》の居る事を、友だちは矜《ほこ》りはしなかったに違いない。
 ――町の湯の名もそれから起った。――そうか、椎の木の大狢、経立《ふッた》ち狢、化婆々《ばけばばあ》。
「あれえ。」
「…………」
「可厭《いや》、おじさんは。」
「あやまった、あやまった。」
 鉄砲で狙《ねら》われた川蝉《かわせみ》のように、日のさす小雨を、綺麗な裾で蓮の根へ飛んで遁《に》げた。お町の後から、外套氏は苦笑いをしながら、その蓮根問屋の土間へ追い続いて、
「決して威《おど》す気で言ったんじゃあない。――はじめは蛇かと思って、ぞっとしたっけ。」
 椎の樹婆叉の話を聞くうちに、ふと見ると、天井の車麩に搦《から》んで、ちょろちょろと首と尾が顕《あら》われた。その上下《うえした》に巻いて廻るのを、蛇が伝う、と見るとともに、車麩がくるくると動くようで、因果車が畝《うね》って通る。……で悚気《ぞっ》としたが、熟《じっ》と視《み》ると、鼠か、溝鼠《どぶねずみ》か、降る雨に、あくどく濡れて這《は》っている。……時も時だし、や、小さな狢が天井へ、とうっかり饒舌《しゃべ》って、きれいな鳥を蓮池へ飛ばしたのであった。
「そんな事に驚く奴があるものか。」
「だって、……でも、もう大丈夫だわ、ここへ来れば人間の狸《たぬき》が居るから。」
 と、大きに蓮葉《はすは》で、
「権《ごん》ちゃん――居るの。」
 獣ならば目が二つ光るだろう。あれでも人が居るかと思う。透かして見れば帳場があって、その奥から、大土間の内側を丸太で劃《しき》った――(朝市がそこで立つ)――その劃《しきり》の外側を廻って、右の権ちゃん……めくら縞《じま》の筒袖《つつッぽ》を懐手《ふところで》で突張《つっぱ》って、狸より膃肭臍《おっとせい》に似て、ニタニタと顕《あら》われた。廓《くるわ》の美人で顔がきく。この権ちゃんが顕われると、外土間に出張った縁台に腰を掛けるのに――市が立つと土足で糶上《せりあが》るのだからと、お町が手巾《ハンケチ》でよく払《はた》いて、縁台に腰を掛けるのだから、じかに七輪《しちりん》の方がいい、そちこち、お八つ時分、薬鑵《やかん》の湯も沸いていようと、遥《はるか》な台所口からその権ちゃんに持って来させて、御挨拶は沢山……大きな坊やは、こう見えても人見知りをするから、とくるりと権ちゃんに背後《うしろ》を向かせて、手で叩く真似をすると、えへへ、と権ちゃんの引込《ひっこ》んだ工合《ぐあい》が、印《いん》は結ばないが、姉さんの妖術《ようじゅつ》に魅《かか》ったようであった。

 通り雨は一通り霽《あが》ったが、土は濡れて、冷くて、翡翠《かわせみ》の影が駒下駄を辷《すべ》ってまた映る……片褄端折《かたづまはしょり》に、乾物屋の軒を伝って、紅端緒《べにはなお》の草履ではないが、ついと楽屋口へ行く状《さま》に、肩細く市場へ入ったのが、やがて、片手にビイルの壜《びん》、と見ると片手に持った硝子盃《コップ》が、光りを分けて、二つになって並んだのは、お町さんも、一口つき合ってくれる気か。
「しゃッ、しゃッ。」
 思わず糶声《せりごえ》を立てて、おじさんは、手を揚げながら、片手で外套の膝を叩いた。
「お手柄、お手柄。」
 土間はたちまち春になり、花の蕾《つぼみ》の一輪を、朧夜《おぼろよ》にすかすごとく、お町の唇をビイルで撓《た》めて、飲むほどに、蓮池のむかしを訪《と》う身には本懐とも言えるであろう。根を掘上げたばかりと思う、見事な蓮根が柵《さく》の内外《うちそと》、浄土の逆茂木《さかもぎ》。勿体ないが、五百羅漢《ごひゃくらかん》の御腕《おんうで》を、組違えて揃う中に、大笊《おおざる》に慈姑《くわい》が二杯。泥のままのと、一笊は、藍《あい》浅く、颯《さっ》と青に洗上げたのを、ころころと三つばかり、お町が取って、七輪へ載せ、尉《じょう》を払い、火箸であしらい、媚《なまめ》かしい端折《はしょり》のまま、懐紙《ふところがみ》で煽《あお》ぐのに、手巾《ハンケチ》で軽く髪の艶《つや》を庇《かば》ったので、ほんのりと珊瑚《さんご》の透くのが、三杯目の硝子盃に透いて、あの、唇だか、その珊瑚だか、花だか、蕾だか、蕩然《とろり》となる。
「町子嬢、町子嬢。」
「は。」
 と頸《えり》の白さを、滑《なめら》かに、長く、傾いてちょっと嬌態《しな》を行《や》る。
「気取ったな。」
「はあ。」
「一体こりゃどういう事になるんだい。」
「慈姑《くわい》の田楽、ほほほ。」
 と、簪《かんざし》の珊瑚と、唇が、霞の中に、慈姑とは別に二つ動いて、
「おじさんは、小児《こども》の時、お寺へ小僧さんにやられる処だったんだって……何も悪たれ坊ッてわけじゃない、賢くって、おとなしかったから。――そうすりゃきっと名僧知識になれたんだ。――お母《っか》さんがそういって話すんだわ。」
「悪かったよ。その方がよかったんだよ。相済まなかったよ。」
 今度は、がばがばと手酌で注《つ》ぐ。
「ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。」
「ああ、情《なさけ》ない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これが鰌《どじょう》だと引導を渡す処だが、これじゃ、お念仏を唱えるばかりだ。――ああ、お町ちゃん。」
 わざとした歎息を、陽気に、ふッと吹いて、
「……そういえば、一昨日《おととい》の晩……途中で泊った、鹿落《かおち》の温泉でね。」
「ええ。」
「実際、お念仏を唱えたよ、真夜半《まよなか》さ。」
「夜半《よなか》。」
 と七輪の上で、火の気に賑《にぎや》かな頬が肅然《じっ》と沈んだ。
「……何、考えて見れば、くだらない事なんだが、鹿落は寂しい処だよ。そこを狙ったわけでもないが、来がけに一晩保養をしたがね。真北の海に向って山の中腹にあるんだから、長い板廊下を九十九折《つづらおり》とった形に通るんだ。――知っているかも知れないが。――座敷は三階だったけれど、下からは四階ぐらいに当るだろう。晩飯の烏賊《いか》と蝦《えび》は結構だったし、赤蜻蛉《あかとんぼ》に海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身に沁《し》みる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布《よの》の綿の厚いのがごつごつ重《おもた》くって、肩がぞくぞくする。枕許《まくらもと》へ熱燗《あつかん》を貰って、硝子盃酒《コップざけ》の勢《いきおい》で、それでもぐっすり疲れて寝た。さあ何時頃だったろう。何しろ真夜半だ。厠《かわや》へ行《ゆ》くのに、裏階子《うらばしご》を下りると、これが、頑丈な事は、巨巌《おおいわ》を斫開《きりひら》いたようです。下りると、片側に座敷が五つばかり並んで、向うの端だけ客が泊ったらしい。ところが、次の間つきで、奥だけ幽《かすか》にともれていて、あとが暗い。一方が洗面所で、傍《そば》に大きな石の手水鉢《ちょうずばち》がある、跼《かが》んで手を洗うように出来ていて、筧《かけひ》で谿河《たにがわ》の水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞こえない。」
「まあ……」
「すぐの、だだッ広い、黒い板の間の向うが便所なんだが、その洗面所に一つ電燈《でんき》が点《つ》いているきりだから、いとどさえ夜ふけの山気に圧《お》されて、薄暗かったと思っておくれ。」
「可厭《いや》あね。」
「止むを得ないよ。……実際なんだから。晩に見た心覚えでは、この間に、板戸があって、一枚開いていたように思ったんだが、それが影もなかった。思いちがいなんだろう。
 山霧の冷いのが――すぐ外は崖の森だし――窓から、隙間から、立て籠《こ》むと見えて、薄い靄《もや》のようなものが、敷居に立って、それに木目がありそうに見える。ところで、穿《は》いた草履が、笹葉《ささっぱ》でも踏む心持《こころもち》にバサリとする。……暗い中に、三つ並んでいるんです。」
「あの、鹿落。」
 と、瞳を凝らした、お町の眉に、その霧が仄《ほのか》にうつッた。
「三階の裏階子を下りた処だわね、三つ並んだ。」
「どうかしたかい。」
「どうして……それから。」
 お町は聞返して、また息を引いた。
「その真中《まんなか》の戸が、バタン……と。」
「あら……」
「いいえさ、怯《おど》かすんじゃあない。そこで、いきなり開いたんだと、余計驚いたろうが――開いていたんだよ。ただし、開いていた、その黒い戸の、裏桟に、白いものが一条《ひとすじ》、うねうねと伝《つたわ》っている。」
「…………」
「どこからか、細目に灯《あかり》が透くのかしら?……その端の、ふわりと薄※[#「匸<扁」、第4水準2−3−48]《うすひら》ったい処へ、指が立って、白く刎《は》ねて、動いたと思うと、すッと扉《と》が閉《しま》った。招いたような形だが、串戯《じょうだん》じゃあない、人が行ったので閉めたのさ。あとで思ってもまったく色が白かった、うつくしい女の手だよ――あ、どうした。」
 その唇が、眉とともに歪《ゆが》んだと思うと、はらりと薫って、胸に冷《ひや》り、円髷《まるまげ》の手巾《ハンケチ》の落ちかかる、一重《ひとえ》だけは隔てたが、お町の両の手が、咄嗟《とっさ》に外套の袖をしごくばかりに引掴《ひきつか》んで、肩と袖で取縋《とりすが》った。片褄の襦袢が散って、山茶花《さざんか》のようにこぼれた。
 この身動《みじろ》ぎに、七輪の慈姑《くわい》が転げて、コンと向うへ飛んだ。一個《ひとつ》は、こげ目が紫立って、蛙の人魂《ひとだま》のように暗い土間に尾さえ曳《ひ》く。
 しばらくすると、息つぎの麦酒《ビイル》に、色を直して、お町が蛙の人魂の方を自分で食べ、至極尋常なのは、皮を剥《は》がして、おじさんに振舞ったくらいであるから。――次の話が、私はじめ、読者諸君も安心して聞くことを得るのである。

 一体、外套氏が、この際、いまの鹿落の白い手を言出したのは、決して怪談がかりに娘を怯《おど》かすつもりのものではなかった。近間ではあるし、ここを出たら、それこそ、ちちろ鳴く虫が糸を繰る音《ね》に紛れる、その椎樹《しいのき》――(釣瓶《つるべ》おろし)(小豆《あずき》とぎ)などいう怪《ばけ》ものは伝統的につきものの――樹の下を通って見たかった。車麩《くるまぶ》の鼠に怯《おび》えた様子では、同行を否定されそうな形勢だった処から、「お町さん、念仏を唱えるばかり吃驚《びっくり》した、厠《かわや》の戸の白い手も、先へ入っていた女が、人影に急いで扉《と》を閉めただけの事で、何でもないのだ。」と、おくれ馳《ば》せながら、正体見たり枯尾花流に――続いて説明に及ぶと、澄んで沈んだ真顔になって、鹿落の旅館の、その三つ並んだ真中《まんなか》の厠は、取壊して今はない筈《はず》だ、と言って、先手に、もう知っている。……
 はてな、そういえば、朝また、ようをたした時は、ここへ白い手が、と思う真中のは、壁が抜けて、不状《ぶざま》に壊れて、向うが薮畳《やぶだた》みになっていたのを思出す。……何、昨夜《ゆうべ》は暗がりで見損《みそこな》ったにして、一向気にも留めなかったのに。……
 ふと、おじさんの方が少し寒気立って、
「――そういえば真中《まんなか》のはなかったよ、……朝になると。……じゃあ何か仔細《わけ》があるのかい。」
「おじさん――それじゃ、おじさんは、幽霊を、見たんですね。」
「幽霊を。」
「も
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