》の門内に安置して、花筒に花、手水鉢に柄杓《ひしゃく》を備えたのを、お町が手つぎに案内すると、外套氏が懐しそうに拝んだのを、嬉しがって、感心して、こん度は切殺された、城のお妾《めかけ》さん――のその姿で、縁切り神さんが、向うの森の祠《ほこら》にあるから一所に行こうと、興に乗じた時……何といった、外套氏。――「縁切り神様は、いやだよ、二人して。」は、苦々しい。
 だから、ちょっとこの子をこう借りた工合《ぐあい》に、ここで道行きの道具がわりに使われても、憾《うら》みはあるまい。

 そこで川通りを、次第に――そうそうそう肩を合わせて歩行《ある》いたとして――橋は渡らずに屋敷町の土塀を三曲りばかり。お山の妙見堂の下を、たちまち明るい廓へ入って、しかも小提灯のまま、客の好みの酔興な、燈籠《とうろう》の絵のように、明保野の入口へ――そこで、うぐいの灯が消えた。
 
「――藤紫の半襟が少しはだけて、裏を見せて、繊《ほっそ》り肌襦袢の真紅なのが、縁の糸とかの、燃えるように、ちらちらして、静《しずか》に瞼《まぶた》を合わせていた、お藻代さんの肌の白いこと。……六畳は立籠《たてこ》めてあるし、南風気《みなみけ》で、その上暖か過ぎたでしょう。鬢《びん》の毛がねっとりと、あの気味の悪いほど、枕に伸びた、長い、ふっくりしたのどへまつわって、それでいて、色が薄《うっす》りと蒼《あお》いんですって。……友染の夜具に、裾は消えるように細《ほっそ》りしても――寝乱れよ、おじさん、家業で芸妓衆《げいしゃしゅ》のなんか馴《な》れていても、女中だって堅い素人なんでしょう。名古屋の客に呼ばれて……お信《のぶ》――ええ、さっき私たち出しなに駒下駄を揃えた、あの銀杏返《いちょうがえし》の、内のあの女中ですわ――二階廊下を通りがかりにね、(おい、ねえさんか、湯を一杯。)……
(お水《ひや》を取かえて参りましょうか。)枕頭《まくらもと》にあるんですから。(いや、熱い湯だ。……時々こんな事がある。飲過ぎたと見えて寒気がする。)……これが襖《ふすま》越しのやりとりよ。……
 私?……私は毎朝のように、お山の妙見様へお参りに。おっかさんは、まだ寝床に居たんです。台所の薬鑵《ゆわかし》にぐらぐら沸《たぎ》ったのを、銀の湯沸《ゆわかし》に移して、塗盆で持って上って、(御免遊ばせ。)中庭の青葉が、緑の霞に光って、さし込む裡《なか》に、いまの、その姿でしょう。――馴《な》れない人だから、帯も、扱帯《しごき》も、羽衣でも※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》ったように、ひき乱れて、それも男の手で脱がされたのが分ります。――薄い朱鷺色《ときいろ》、雪輪なんですもの、どこが乳だか、長襦袢だか。――六畳だし……お藻代さんの顔の前、枕まではゆきにくい。お信が、ぼうとなって、入口に立ちますとね、(そこへ。)と名古屋の客がおっしゃる。……それなりに敷蒲団《しきぶとん》の裾へ置いて来たそうですが。」
 外套氏は肩をすくめた。思わず危険を予感した。
「名古屋の客が起上りしな、手を伸ばして、盆ごと取って、枕頭へ宙を引くトタンに塗盆を辷《すべ》ったんです。まるで、黒雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐《とびかか》る勢《いきおい》で、お藻代さんの、恍惚《うっとり》したその寝顔へ、蓋《ふた》も飛んで、仰向《あおむ》けに、熱湯が、血ですか、蒼い鬼火でしょうか、玉をやけば紫でしょうか……ばっと煮えた湯気が立ったでしょう。……お藻代さんは、地獄の釜《かま》で煮られたんです。
 あの、美しい、鼻も口も、それッきり、人には見せず……私たちも見られません。」
「野郎はどうした。」
 と外套氏の膝の拳《こぶし》が上った。
「それはね、ですが、納得ずくです。すっかり身支度をして、客は二階から下りて来て――長火鉢の前へ起きて出た、うちの母の前へ、きちんと膝に手をついて、
(――ちょっと事件が起りました。女は承知です。すぐ帰りますから。)――
 分外なお金子《かね》に添えて、立派な名刺を――これは極秘に、と云ってお出しなすったそうですが、すぐに式台へ出なさいますから、(ちょっとどうぞ、旦那。)と引留めて置いて、まだ顔も洗わなかったそうですけれど、トントンと、二階へ上って、大急ぎで廊下を廻《めぐ》って、襖《ふすま》の外から、
(――夫人《おく》さん――)
 ひっそりしていたそうです。
(――夫人さん、旦那様はお帰りになりますが。)――
 ものに包まれたような、ふくみ声で、
(いらして、またおいであそばして……)――
 と、震えて、きれぎれに聞こえたって言います。
 おじさん、妙見様から、私が帰りました時はね、もう病院へ、母がついて、自動車で行ったあとです。お信たちのいうのでは、玉子色の絹の手巾《ハンケチ》で[#「手巾《ハンケチ》で」は底本では「手巾《ハンケチ》て」]顔を隠した、その手巾が、もう附着《くッつ》いていて離れないんですって。……帯をしめるのにも。そうして手巾に(もよ)と紅糸《あかいと》で端縫《はしぬい》をしたのが、苦痛にゆがめて噛緊《かみし》める唇が映って透くようで、涙は雪が溶けるように、頸脚《えりあし》へまで落ちたと言います。」
「不可《いけな》い……」
 外套氏は、お町の顔に当てた手巾を慌《あわただ》しく手で払った。
 雨が激しく降って来た。
「……何とも申様がない……しかし、そこで鹿落の温泉へは、療治に行ったとでもいうわけかね。」
「湯治だなんのって、そんな怪我ではないのです。療治は疾《と》うに済んだんですが、何しろ大変な火傷《やけど》でしょう。ずッと親もとへ引込んでいたんですが、片親です、おふくろばかり――外へも出ません。私たちが行って逢う時も、目だけは無事だったそうですけれども、すみの目金をかけて、姉《ねえ》さんかぶりをして、口にはマスクを掛けて、御経を習っていました。お客から、つけ届けはちゃんとありますが、一度来るといって、一年たち三年たち、……もっとも、沸湯《にえゆ》を浴びた、その時、(――男を一人助けて下さい。……見継ぎは、一生する。)――両手をついて、言ったんですって。
 お藻代さんは、ただ一夜《ひとよ》の情《なさけ》で、死んだつもりで、地獄の釜で頷《うなず》いたんですね。ですから、客の方で約束は違えないんですが、一生飼殺し、といった様子でしょう。
 旅行《たび》はどうしてしたでしょう。鹿落の方角です、察しられますわ。霜月でした――夜汽車はすいていますし、突伏《つっぷ》してでもいれば、誰にも顔は見られませんの。
 温泉宿でも、夜汽車でついて、すぐ、その夜半《よなか》だったんですって。――どこでもいうことでしょうかしら? 三つ並んだはばかりの真中《まんなか》へは入るものではないとは知っていたけれども、誰も入るもののないのを、かえって、たよりにして、夜ふけだし、そこへ入って……情《なさけ》ないわけねえ。……鬱陶《うっとう》しい目金も、マスクも、やっと取って、はばかりの中ですよ。――それで吻《ほっ》として、大《おおき》な階子段《はしごだん》の暗いのも、巌山《いわやま》を視《なが》めるように珍らしく、手水鉢《ちょうずばち》に筧《かけひ》のかかった景色なぞ……」
「ああ、そうか。」
「うぐい亭の庭も一所に、川も、山も、何年ぶりか、久しぶりで見る気がして、湯ざめで冷くなるまで、覗《のぞ》いたり、見廻したり、可哀想じゃありませんか。
 ――かきおきにあったんです――
 ハッと手をのばして、戸を内へ閉めました。不意に人が来たんですね。――それが細い白い手よ。」
「むむ、私のような奴だ。」
 と寂しく笑いつつ、毛肌になって悚《ぞっ》とした。
「ぎゃっと云って、その男が、凄《すさま》じい音で顛動返《ひっくりかえ》ってしまったんですってね。……夜番は駆けつけますわ、人は騒ぐ。気の毒さも、面目なさも通越して、ひけめのあるのは大火傷の顔のお化でしょう。
 もう身も世も断念《あきら》めて、すぐに死場所の、……鉄道線路へ……」
「厠《かわや》からすぐだろうか。」
「さあね、それがね、恥かしさと死ぬ気の、一念で、突き破ったんでしょうか。細い身体《からだ》なら抜けられるくらい古壁は落ちていたそうですけれど、手も浄《きよ》めずに出たなんぞって、そんなのは、お藻代さんの身に取って私は可厭《いや》。……それだとどこで遺書《かきおき》が出来ます。――轢《ひ》かれたのは、やっと夜《よ》の白みかかった時だっていうんですもの。もっとも(幽《かすか》なお月様の影をたよりに)そうかいてもあるんですけれども。一旦座敷へ帰ったんです。一生懸命、一大事、何かの時、魂も心も消えるといえば、姿だって、消えますわ。――三枚目の大男の目をまわしているまわりへ集まった連中の前は、霧のように、スッと通って、悠然と筧で手水をしたでしょう。」
「もの凄《すご》い。」
「でも、分らないのは、――新聞にも出ましたけれど、ちゃんと裾腰《すそごし》のたしなみはしてあるのに、衣《き》ものは、肌まで通って、ぐっしょり、ずぶ濡れだったんですって。……水ごりでも取りましたか、それとも途中の小川へでも落ちたんでしょうか。」
「ああ、縁台が濡れる。」
 と、お町の手を取って、位置を直して、慎重に言った。
「それにね、首……顔がないんです。あの、冷いほど、真白《まっしろ》な、乳も、腰も、手足も残して。……微塵《みじん》に轢《ひ》かれたんでしょう。血の池で、白魚が湧《わ》いたように、お藻代さんの、顔だの、頬だのが。
 堤防《どて》を離れた、電信のはりがねの上の、あの辺……崖の中途の椎《しい》の枝に、飛上った黒髪が――根をくるくると巻いて、倒《さかさ》に真黒《まっくろ》な小蓑《こみの》を掛けたようになって、それでも、優しい人ですから、すんなりと朝露に濡れていました。それでいて毛筋をつたわって、落ちる雫《しずく》が下へ溜《たま》って、血だったそうです。」
「寒くなった。……出ようじゃないか。――ああ西日が当ると思ったら、向うの蕃椒《とうがらし》か。慌てている。が雨は霽《あが》った。」
 提灯なしに――二人は、歩行《ある》き出した。お町の顔の利くことは、いつの間にか、蓮根の中へ寄掛けて、傘が二本立掛けてあるのを振返って見たので知れる。
「……あすこに人が一人立っているね、縁台を少し離れて、手摺《てすり》に寄掛《よりかか》って。」
「ええ、どしゃ降りの時、気がつきましたわ。私、おじさんの影法師かと思ったわ。――まだ麦酒《ビイル》があったでしょう。あとで一口めしあがるなぞは、洒落《しゃれ》てるわね。」
「何だ、いま泣いた烏がもう出て笑う、というのは、もうちと殊勝な、お人柄の事なんだぜ。私はまた、なぜだか、前刻《さっき》いった――八田――紺屋の干場の近くに家《うち》のあった、その男のような気がしたよ。小学校以来。それだって空《くう》な事過ぎるが、むかし懐かしさに、ここいら歩行《ある》かないとは限らない。――女づれだから、ちょっと言《ことば》を掛けかねたろう。……
 それだと、あすこで一杯やりかねない男だが、もうちと入組んだ事がある。――鹿落を日暮方出て此地《ここ》へ来る夜汽車の中で、目の光る、陰気な若い人が真向《まむこう》に居てね。私と向い合うと、立掛けてあった鉄砲――あれは何とかいう猟銃さ――それを縦に取って、真鍮《しんちゅう》の蓋《ふた》を、コツコツ開けたり、はめたりする。長い髪の毛を一振振りながら、(猟師と見えますか。)ニヤリと笑って、(フフン、世を忍ぶ――仮装ですよ。)と云ってね。袋から、血だらけな頬白《ほおじろ》を、(受取ってくれたまえ。)――そういって、今度は銃を横へ向けて撃鉄《うちがね》をガチンと掛けるんだ。(麁葉《そは》だが、いかがです。)――貰いものじゃあるが葉巻を出すと、目を見据えて、(贅沢《ぜいたく》なものをやりますな、僕は、主義として、そういうものは用いないです。)またそういって、撃鉄をカチッと行《や》る。
 貰いものの葉巻を吹かすより、霰弾《さんだん》で鳥をば
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