》に、背尾を刎《は》ねた、皿に余る尺ばかりな塩焼は、まったく美味である。そこで、讃歎すると、上流、五里七里の山奥から活《いき》のまま徒歩で運んで来る、山爺《やまじじい》の一人なぞは、七十を越した、もう五十年余りの馴染《なじみ》だ、と女中が言った。してみると、おなじ獺《おそ》でも山獺が持参するので、伝説は嘘でない。しかし、お町の――一説では、上流五里七里の山奥から山爺は、――どの客にも言うのだそうである。
 水と、柳のせいだろう。女中は皆美しく見えた。もし、妻女、娘などがあったら、さぞ妍艶《けんえん》であろうと察しらるる。
 さて、「いらして、また、おいで遊ばして」と枝折戸でいう一種綿々たる余韻の松風に伝う挨拶は、不思議に嫋々《じょうじょう》として、客は青柳に引戻さるる思《おもい》がする。なお一段と余情のあるのは、日が暮れると、竹の柄の小提灯《こぢょうちん》で、松の中の径《こみち》を送出すのだそうである。小褄《こづま》の色が露に辷《すべ》って、こぼれ松葉へ映るのは、どんなにか媚《なまめ》かしかろうと思う。

「――お藻代さんの時が、やっぱりそうだったんですってさ。それに、もう十時すぎだったというんです。」
 五年|前《ぜん》、六月六日の夜《よ》であった。明直にいえば、それが、うぐい亭のお藻代が、白い手の幻影《まぼろし》になる首途《かどで》であった。
 その夜、松の中を小提灯で送り出た、中京、名古屋の一客――畜生め色男――は、枝折戸口で別れるのに、恋々としてお藻代を強いて、東の新地――廓《くるわ》の待合、明保野《あけぼの》という、すなわちお町の家《うち》まで送って来させた。お藻代は、はじめから、お町の内に馴染《なじみ》ではあったが、それが更《あらた》めて深い因縁になったのである。

「あの提灯が寂しいんですわ……考えてみますと……雑で、白張《しらはり》のようなんですもの。」――

「うぐい。」――と一面――「亭」が、まわしがきの裏にある。ところが、振向け方で、「うぐい」だけ黒く浮いて出ると、お経ではない、あの何とか、梵字《ぼんじ》とかのようで、卵塔場の新墓に灯《とも》れていそうに見えるから、だと解く。――この、お町の形象学は、どうも三世相《さんぜそう》の鼇頭《ごうとう》にありそうで、承服しにくい。
 それを、しかも松の枝に引掛《ひっか》けて、――名古屋の客が待っていた。冥途《めいど》の首途《かどで》を導くようじゃありませんか、五月闇《さつきやみ》に、その白提灯を、ぼっと松林の中に、という。……成程、もの寂しさは、もの寂しい……
 話はちょっと前後した――うぐい亭では、座つきに月雪花。また少々|慾張《よくば》って、米俵だの、丁字《ちょうじ》だの、そうした形の落雁《らくがん》を出す。一枚《ひとつ》ずつ、女の名が書いてある。場所として最も近い東の廓《くるわ》のおもだった芸妓《げいしゃ》連が引札《ひきふだ》がわりに寄進につくのだそうで。勿論、かけ離れてはいるが、呼べば、どの妓《おんな》も三味線《さみせん》に応ずると言う。その五年前、六月六日の夜――名古屋の客は――註しておくが、その晩以来、顔馴染にもなり、音信《おとずれ》もするけれども、その姓名だけは……とお町が堅く言わないのだそうであるから、ただ名古屋の客として。……あとを続けよう。

「――みんな、いい女らしいね。見た処。中でも、俵のなぞは嬉しいよ。ここに雪形に、もよ、というのは。」
「飛んだ、おそまつでございます。」
 と白い手と一所に、銚子《ちょうし》がしなうように見えて、水色の手絡《てがら》の円髷《まるまげ》が重そうに俯向《うつむ》いた。――嫋《なよや》かな女だというから、その容子《ようす》は想像に難くない。欄干に青柳の枝垂《しだ》るる裡《なか》に、例の一尺の岩魚《いわな》。※[#「魚+成」、第3水準1−94−43]《うぐい》と蓴菜《じゅんさい》の酢味噌。胡桃《くるみ》と、飴煮《あめに》の鮴《ごり》の鉢、鮴とせん牛蒡《ごぼう》の椀なんど、膳を前にした光景が目前《めさき》にある。……
「これだけは、密《そっ》と取りのけて、お客様には、お目に掛けませんのに、どうして交っていたのでございましょうね。」――

「いや、どうもその時の容子《ようす》といったら。」――
 名古屋の客は、あとで、廓の明保野で――落雁で馴染の芸妓を二三人一座に――そう云って、燥《はしゃ》ぎもしたのだそうで。
 落雁を寄進の芸妓連が、……女中頭ではあるし、披露《ひろ》めのためなんだから、美しく婀娜《あだ》なお藻代の名だけは、なか間の先頭にかき込んでおくのであった。
 ――断るまでもないが、昨日《きのう》の外套氏の時の落雁には、もはやお藻代の名だけはなかった。――
 さて、至極古風な、字のよく読めない勘定がきの受取が
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