う私……気味が悪いの、可厭《いや》だなぞって、そんな押退《おしの》けるようなこと言えませんわ。あんまり可哀想な方ですもの。それはね、あの、うぐい(※[#「魚+成」、第3水準1−94−43])亭――ずッと河上の、川魚料理……ご存じでしょう。」
「知ってるとも。――現在、昨日《きのう》の午餉《ひる》はあすこで食べたよ。閑静で、落着いて、しんみりして佳《い》い家《うち》だが、そんな幽霊じみた事はいささかもなかったぜ。」
「いいえ、あすこの、女中《なかい》さんが、鹿落の温泉でなくなったんです。お藻代《もよ》さんという、しとやかな、優しい人でした。……おじさん、その白い、細いのは、そのお藻代さんの手なんですよ。」
「おどかしなさんない。おじさんを。」と外套氏は笑ったが。
――今年余寒の頃、雪の中を、里見、志賀の両氏が旅して、新潟の鍋茶屋《なべぢゃや》などと併《なら》び称せらるる、この土地、第一流の割烹《かっぽう》で一酌し、場所をかえて、美人に接した。その美人たちが、河上の、うぐい亭へお立寄り遊ばしたか、と聞いて、その方が、なお、お土産になりますのに、と言ったそうである。うぐい亭の存在を云爾《しかいう》ために、両|家《か》の名を煩わしたに過ぎない。両家はこの篇には、勿論、外套氏と寸毫《すんごう》のかかわりもない。続いて、仙女香、江戸の水のひそみに傚《なら》って、私が広告を頼まれたのでない事も断っておきたい。
近頃は風説《うわさ》に立つほど繁昌《はんじょう》らしい。この外套氏が、故郷に育つ幼い時分《ころ》には、一度ほとんど人気《ひとけ》の絶えるほど寂れていた。町の場末から、橋を一つ渡って、山の麓《ふもと》を、五町ばかり川添《かわぞい》に、途中、家のない処を行《ゆ》くので、雪にはいうまでもなく埋《うず》もれる。平家づくりで、数奇《すき》な亭構《ちんがま》えで、筧《かけひ》の流れ、吹上げの清水、藤棚などを景色に、四つ五つ構えてあって、通いは庭下駄で、おも屋から、その方は、山の根に。座敷は川に向っているが、すぐ磧《かわら》で、水は向う岸を、藍《あい》に、蒼《あお》に流れるのが、もの静かで、一層床しい。籬《まがき》ほどもない低い石垣を根に、一株、大きな柳があって、幹を斜《ななめ》に磧へ伸びつつ、枝は八方へ、座敷の、どの窓も、廂《ひさし》も、蔽《おお》うばかり見事に靡《なび》いている。月には翡翠《ひすい》の滝の糸、雪には玉の簾《すだれ》を聯《つら》ねよう。
それと、戸前《かどさき》が松原で、抽《ぬきん》でた古木もないが、ほどよく、暗くなく、あからさまならず、しっとりと、松葉を敷いて、松毬《まつかさ》まじりに掻《か》き分けた路も、根を畝《うね》って、奥が深い。いつも松露の香がたつようで、実際、初茸《はつたけ》、しめじ茸は、この落葉に生えるのである。入口に萩の枝折戸《しおりど》、屋根なしに網代《あじろ》の扉《と》がついている。また松の樹を五《いつ》株、六《む》株。すぐに石ころ道が白く続いて、飛地のような町屋の石を置いた板屋根が、山裾に沈んで見えると、そこにその橋がある。
蝙蝠《こうもり》に浮かれたり、蛍《ほたる》を追ったり、その昔子供等は、橋まで来るが、夜は、うぐい亭の川岸は通り得なかった。外套氏のいう処では、道の途中ぐらい、麓《ふもと》の出張った低い磧《かわら》の岸に、むしろがこいの掘立小屋《ほったてごや》が三つばかり簗《やな》の崩れたようなのがあって、古俳句の――短夜《みじかよ》や(何とかして)川手水《かわちょうず》――がそっくり想出された。そこが、野三昧《のざんまい》の跡とも、山窩《さんか》が甘い水を慕って出て来るともいう。人の灰やら、犬の骨やら、いずれ不気味なその部落を隔てた処に、幽《かすか》にその松原が黒く乱れて梟《ふくろ》が鳴いているお茶屋だった。――※[#「魚+成」、第3水準1−94−43]《うぐい》、鮠《はや》、鮴《ごり》の類は格別、亭で名物にする一尺の岩魚《いわな》は、娘だか、妻女だか、艶色《えんしょく》に懸相《けそう》して、獺《かわおそ》が件《くだん》の柳の根に、鰭《ひれ》ある錦木《にしきぎ》にするのだと風説《うわさ》した。いささか、あやかしがついていて、一層寂れた。鵜《う》の啣《くわ》えた鮎《あゆ》は、殺生ながら賞翫《しょうがん》しても、獺の抱えた岩魚は、色恋といえども気味が悪かったものらしい。
今は、自動車さえ往来《ゆきき》をするようになって、松蔭の枝折戸まで、つきの女中が、柳なんぞの縞《しま》お召、人懐《ひとなつっこ》く送って出て、しとやかな、情のある見送りをする。ちょうど、容子《ようす》のいい中年増が給仕に当って、確《たしか》に外套氏がこれは体験した処である。ついでに岩魚の事を言おう。瀬波に翻《ひるが》える状《さま
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