は、巨巌《おおいわ》を斫開《きりひら》いたようです。下りると、片側に座敷が五つばかり並んで、向うの端だけ客が泊ったらしい。ところが、次の間つきで、奥だけ幽《かすか》にともれていて、あとが暗い。一方が洗面所で、傍《そば》に大きな石の手水鉢《ちょうずばち》がある、跼《かが》んで手を洗うように出来ていて、筧《かけひ》で谿河《たにがわ》の水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞こえない。」
「まあ……」
「すぐの、だだッ広い、黒い板の間の向うが便所なんだが、その洗面所に一つ電燈《でんき》が点《つ》いているきりだから、いとどさえ夜ふけの山気に圧《お》されて、薄暗かったと思っておくれ。」
「可厭《いや》あね。」
「止むを得ないよ。……実際なんだから。晩に見た心覚えでは、この間に、板戸があって、一枚開いていたように思ったんだが、それが影もなかった。思いちがいなんだろう。
山霧の冷いのが――すぐ外は崖の森だし――窓から、隙間から、立て籠《こ》むと見えて、薄い靄《もや》のようなものが、敷居に立って、それに木目がありそうに見える。ところで、穿《は》いた草履が、笹葉《ささっぱ》でも踏む心持《こころもち》にバサリとする。……暗い中に、三つ並んでいるんです。」
「あの、鹿落。」
と、瞳を凝らした、お町の眉に、その霧が仄《ほのか》にうつッた。
「三階の裏階子を下りた処だわね、三つ並んだ。」
「どうかしたかい。」
「どうして……それから。」
お町は聞返して、また息を引いた。
「その真中《まんなか》の戸が、バタン……と。」
「あら……」
「いいえさ、怯《おど》かすんじゃあない。そこで、いきなり開いたんだと、余計驚いたろうが――開いていたんだよ。ただし、開いていた、その黒い戸の、裏桟に、白いものが一条《ひとすじ》、うねうねと伝《つたわ》っている。」
「…………」
「どこからか、細目に灯《あかり》が透くのかしら?……その端の、ふわりと薄※[#「匸<扁」、第4水準2−3−48]《うすひら》ったい処へ、指が立って、白く刎《は》ねて、動いたと思うと、すッと扉《と》が閉《しま》った。招いたような形だが、串戯《じょうだん》じゃあない、人が行ったので閉めたのさ。あとで思ってもまったく色が白かった、うつくしい女の手だよ――あ、どうした。」
その唇が、眉とともに歪《ゆが》んだと思うと、はらりと薫って、胸に冷《ひや》り、円髷《まるまげ》の手巾《ハンケチ》の落ちかかる、一重《ひとえ》だけは隔てたが、お町の両の手が、咄嗟《とっさ》に外套の袖をしごくばかりに引掴《ひきつか》んで、肩と袖で取縋《とりすが》った。片褄の襦袢が散って、山茶花《さざんか》のようにこぼれた。
この身動《みじろ》ぎに、七輪の慈姑《くわい》が転げて、コンと向うへ飛んだ。一個《ひとつ》は、こげ目が紫立って、蛙の人魂《ひとだま》のように暗い土間に尾さえ曳《ひ》く。
しばらくすると、息つぎの麦酒《ビイル》に、色を直して、お町が蛙の人魂の方を自分で食べ、至極尋常なのは、皮を剥《は》がして、おじさんに振舞ったくらいであるから。――次の話が、私はじめ、読者諸君も安心して聞くことを得るのである。
一体、外套氏が、この際、いまの鹿落の白い手を言出したのは、決して怪談がかりに娘を怯《おど》かすつもりのものではなかった。近間ではあるし、ここを出たら、それこそ、ちちろ鳴く虫が糸を繰る音《ね》に紛れる、その椎樹《しいのき》――(釣瓶《つるべ》おろし)(小豆《あずき》とぎ)などいう怪《ばけ》ものは伝統的につきものの――樹の下を通って見たかった。車麩《くるまぶ》の鼠に怯《おび》えた様子では、同行を否定されそうな形勢だった処から、「お町さん、念仏を唱えるばかり吃驚《びっくり》した、厠《かわや》の戸の白い手も、先へ入っていた女が、人影に急いで扉《と》を閉めただけの事で、何でもないのだ。」と、おくれ馳《ば》せながら、正体見たり枯尾花流に――続いて説明に及ぶと、澄んで沈んだ真顔になって、鹿落の旅館の、その三つ並んだ真中《まんなか》の厠は、取壊して今はない筈《はず》だ、と言って、先手に、もう知っている。……
はてな、そういえば、朝また、ようをたした時は、ここへ白い手が、と思う真中のは、壁が抜けて、不状《ぶざま》に壊れて、向うが薮畳《やぶだた》みになっていたのを思出す。……何、昨夜《ゆうべ》は暗がりで見損《みそこな》ったにして、一向気にも留めなかったのに。……
ふと、おじさんの方が少し寒気立って、
「――そういえば真中《まんなか》のはなかったよ、……朝になると。……じゃあ何か仔細《わけ》があるのかい。」
「おじさん――それじゃ、おじさんは、幽霊を、見たんですね。」
「幽霊を。」
「も
前へ
次へ
全13ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング