ニタと顕《あら》われた。廓《くるわ》の美人で顔がきく。この権ちゃんが顕われると、外土間に出張った縁台に腰を掛けるのに――市が立つと土足で糶上《せりあが》るのだからと、お町が手巾《ハンケチ》でよく払《はた》いて、縁台に腰を掛けるのだから、じかに七輪《しちりん》の方がいい、そちこち、お八つ時分、薬鑵《やかん》の湯も沸いていようと、遥《はるか》な台所口からその権ちゃんに持って来させて、御挨拶は沢山……大きな坊やは、こう見えても人見知りをするから、とくるりと権ちゃんに背後《うしろ》を向かせて、手で叩く真似をすると、えへへ、と権ちゃんの引込《ひっこ》んだ工合《ぐあい》が、印《いん》は結ばないが、姉さんの妖術《ようじゅつ》に魅《かか》ったようであった。
通り雨は一通り霽《あが》ったが、土は濡れて、冷くて、翡翠《かわせみ》の影が駒下駄を辷《すべ》ってまた映る……片褄端折《かたづまはしょり》に、乾物屋の軒を伝って、紅端緒《べにはなお》の草履ではないが、ついと楽屋口へ行く状《さま》に、肩細く市場へ入ったのが、やがて、片手にビイルの壜《びん》、と見ると片手に持った硝子盃《コップ》が、光りを分けて、二つになって並んだのは、お町さんも、一口つき合ってくれる気か。
「しゃッ、しゃッ。」
思わず糶声《せりごえ》を立てて、おじさんは、手を揚げながら、片手で外套の膝を叩いた。
「お手柄、お手柄。」
土間はたちまち春になり、花の蕾《つぼみ》の一輪を、朧夜《おぼろよ》にすかすごとく、お町の唇をビイルで撓《た》めて、飲むほどに、蓮池のむかしを訪《と》う身には本懐とも言えるであろう。根を掘上げたばかりと思う、見事な蓮根が柵《さく》の内外《うちそと》、浄土の逆茂木《さかもぎ》。勿体ないが、五百羅漢《ごひゃくらかん》の御腕《おんうで》を、組違えて揃う中に、大笊《おおざる》に慈姑《くわい》が二杯。泥のままのと、一笊は、藍《あい》浅く、颯《さっ》と青に洗上げたのを、ころころと三つばかり、お町が取って、七輪へ載せ、尉《じょう》を払い、火箸であしらい、媚《なまめ》かしい端折《はしょり》のまま、懐紙《ふところがみ》で煽《あお》ぐのに、手巾《ハンケチ》で軽く髪の艶《つや》を庇《かば》ったので、ほんのりと珊瑚《さんご》の透くのが、三杯目の硝子盃に透いて、あの、唇だか、その珊瑚だか、花だか、蕾だか、蕩然《とろり》となる。
「町子嬢、町子嬢。」
「は。」
と頸《えり》の白さを、滑《なめら》かに、長く、傾いてちょっと嬌態《しな》を行《や》る。
「気取ったな。」
「はあ。」
「一体こりゃどういう事になるんだい。」
「慈姑《くわい》の田楽、ほほほ。」
と、簪《かんざし》の珊瑚と、唇が、霞の中に、慈姑とは別に二つ動いて、
「おじさんは、小児《こども》の時、お寺へ小僧さんにやられる処だったんだって……何も悪たれ坊ッてわけじゃない、賢くって、おとなしかったから。――そうすりゃきっと名僧知識になれたんだ。――お母《っか》さんがそういって話すんだわ。」
「悪かったよ。その方がよかったんだよ。相済まなかったよ。」
今度は、がばがばと手酌で注《つ》ぐ。
「ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。」
「ああ、情《なさけ》ない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これが鰌《どじょう》だと引導を渡す処だが、これじゃ、お念仏を唱えるばかりだ。――ああ、お町ちゃん。」
わざとした歎息を、陽気に、ふッと吹いて、
「……そういえば、一昨日《おととい》の晩……途中で泊った、鹿落《かおち》の温泉でね。」
「ええ。」
「実際、お念仏を唱えたよ、真夜半《まよなか》さ。」
「夜半《よなか》。」
と七輪の上で、火の気に賑《にぎや》かな頬が肅然《じっ》と沈んだ。
「……何、考えて見れば、くだらない事なんだが、鹿落は寂しい処だよ。そこを狙ったわけでもないが、来がけに一晩保養をしたがね。真北の海に向って山の中腹にあるんだから、長い板廊下を九十九折《つづらおり》とった形に通るんだ。――知っているかも知れないが。――座敷は三階だったけれど、下からは四階ぐらいに当るだろう。晩飯の烏賊《いか》と蝦《えび》は結構だったし、赤蜻蛉《あかとんぼ》に海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身に沁《し》みる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布《よの》の綿の厚いのがごつごつ重《おもた》くって、肩がぞくぞくする。枕許《まくらもと》へ熱燗《あつかん》を貰って、硝子盃酒《コップざけ》の勢《いきおい》で、それでもぐっすり疲れて寝た。さあ何時頃だったろう。何しろ真夜半だ。厠《かわや》へ行《ゆ》くのに、裏階子《うらばしご》を下りると、これが、頑丈な事
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