いて寄る。
なぜか、その人を咒《のろ》ったような挙動《しぐさ》が、無体に癪《しゃく》に障ったろう。
(何の車?)と苛々《いらいら》としてこちらも引返した。
(火の車。)
じりじりとまた寄った。
(何の車?)
(火の車、)
(火の車がどうした。)
とちょうど寄合わせた時、少し口惜《くやし》いようにも思って、突懸《つっかか》って言った、が、胸を圧《おさ》えた。可厭《いや》なその臭気《におい》ったら無いもの。
(私《わし》に貸さい、の、あのや、燃え搦《から》まった車で、逢魔《おうま》ヶ時に、真北へさして、くるくる舞いして行《ゆ》かさるは、少《わか》い身に可《よ》うないがいや、の、殿、……私《わし》に貸さい。車借りて飛ばしたい、えらく今日は足がなえたや、やれ、の、草臥《くたび》れたいの、やれやれ、)
と言って、握拳《にぎりこぶし》で腰をたたくのが、突着けて、ちょうど私の胸の処……というものは、あの、急な狭い坂を、奴《やつ》は上の方に居るんだろう。その上、よく見ると、尻をこっちへ、向うむきに屈《かが》んで、何か言っている。
癩《かったい》に棒打《ぼううち》、喧嘩《けんか》にもならんではないか。
(どこへ行《ゆ》くんだい、そして、)ッて聞いて見た。
(同じ処への、)
(吉原か。)
(さればい、それへ。)
とこう言う。
(何しに行《ゆ》くんだね。)
(取揚げに行《ゆ》く事よ。)
ああ、産婆か。道理で、と私は思った。今時そんなのは無いかも知れんが、昔の産婆《ばあ》さんにはこんな風なのが、よくあった。何だか、薄気味の悪いような、横柄で、傲慢《ごうまん》で、人を舐《な》めて、一切心得た様子をする、檀那寺《だんなでら》の坊主、巫女《いちこ》などと同じ様子で、頼む人から一目置かれた、また本人二目も三目も置かせる気。昨日《きのう》のその時なんか、九目《せいもく》という応接《あしらい》です。
なぜか、根性曲りの、邪慳《じゃけん》な残酷なもののように、……絵を見てもそうだろう。産婦が屏風《びょうぶ》の裡《うち》で、生死《いきしに》の境、恍惚《うっとり》と弱果てた傍《わき》に、襷《たすき》がけの裾端折《すそはしょり》か何かで、ぐなりとした嬰児《あかんぼ》を引掴《ひッつか》んで、盥《たらい》の上へぶら下げた処などは、腹を断割《たちわ》ったと言わないばかり、意地くねの悪い姑《しゅうとめ》の人相を、一人で引受けた、という風なものだっけ。
吉原へ行《ゆ》くと云う、彼処等《あすこいら》じゃ、成程頼みそうな昔の産婆だ、とその時、そう思ったから、……後で蔦屋《つたや》の二階で、皆《みんな》に話をする時も、フッとお三輪に、(どこかお産はあるか)って聞いたんだ。
もうそう信じていた。
でも、何だか、肝《かん》が起《た》って、じりじりしてね、おかしく自分でも自棄《やけ》になって、
(貸してやろう、乗っといで。)
(柔順《すなお》なものじゃ、や、よう肯《き》かしゃれたの……おおおお。)と云って臀《しり》を動かす。
変なものをね、その腰へ当てた手にぶら下げているじゃないか。――烏の死骸《しがい》だ。
(何にする、そんなもの。)
(禁厭《まじない》にする大事なものいの、これが荷物じゃ、火の車に乗せますが、やあ、殿。)
(堪《たま》らない! 臭くって、)
と手巾《ハンケチ》へ唾を吐いて、
(車賃は払っておくよ。)
で、フイと分れたが、さあ、踏切を越すと、今の車はどこへ行ったか、そこに待っている筈《はず》のが、まるで分らない。似たやつどころか、また近所に、一台も腕車《くるま》が無かった。……
変じゃないか。」
十六
しばらくして、
「お三輪が話した、照吉が、京都の大学へ行ってる弟の願懸けに行って、堂の前で気落《きおち》した、……どこだか知らないが、谷中の辺で、杉の樹の高い処から鳥が落ちて死んだ、というのを聞いた時、……何の鳥とも、照吉は、それまでは見なかったんだそうだけれども、私は何だよ……
思わず、心が、先刻《さっき》の暗がり坂の中途へ行って、そのおかしな婆々《ばばあ》が、荒縄でぶら提げていた、腐った烏の事を思ったんだ。照吉のも、同じ烏じゃ無かろうかと……それに、可なり大きな鳥だというし……いいや!」
梅次のその顔色《かおつき》を見て、民弥は圧《おさ》えるように、
「まさか、そんな事はあるまいが、ただそこへ考えが打撞《ぶつか》っただけなんだよ。……
だから、さあ、可厭《いや》な気持だから、もう話さないでおきたかったんだけれども、話しかけた事じゃあるし、どうして、中途から弁舌で筋を引替えようという、器用なんじゃ無い。まじまじ遣《や》った……もっとも荒ッぽく……それでも、烏の死骸を持っていたッて、そう云うと、皆《みんな》が妙に気にしたよ。
お三輪は、何も照吉のが烏だとも何とも、自分で言ったのじゃ無いから、別にそこまでは気を廻さなかったと見えて、暗号《あいず》に袖を引張らなかった。もうね、可愛いんだ、――ああ、可恐《こわ》い、と思うと、極《きま》ったように、私の袂《たもと》を引張《ひっぱっ》たっけ、しっかりと持って――左の、ここん処に坐《すわ》っていて、」
と猫板の下になる、膝のあたりを熟《じっ》と視《み》た。……
「煙管《きせる》?」
「ああ、」
「上げましょう。……」
と、トンと払《はた》いて、
「あい。……どうしたんです、それから、可厭《いや》ね、何だか私は、」と袖を合わせる。
「するとだ……まだその踏切を越えて腕車《くるま》を捜したッてまでにも行《ゆ》かず……其奴《そいつ》の風采《ふうつき》なんぞ悉《くわ》しく乗出して聞くのがあるから、私は薄暗がりの中だ。判然とはしないけれど、朧気《おぼろげ》に、まあ、見ただけをね、喋舌《しゃべ》ってる中《うち》に、その……何だ。
向う角の女郎屋《じょろや》の三階の隅に、真暗《まっくら》な空へ、切って嵌《は》めて、裾《すそ》をぼかしたように部屋へ蚊帳《かや》を釣って、寂然《しん》と寝ているのが、野原の辻堂に紙帳《しちょう》でも掛けた風で、恐しくさびれたものだ、と言ったっけ。
その何だよ。……
蚊帳の前へ。」
「ちょいと、」と梅次は、痙攣《ひッつ》るばかり目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って膝をずらした。
「大丈夫、大丈夫、」
と民弥はまたわずかに笑《えみ》を含みつつ、
「仲の町越しに、こちらの二階から見えるんだから、丈が……そうさ、人にして二尺ばかり、一寸法師ッか無いけれど、何、普通で、離れているから小さいんだろう。……婆さんが一人。
大きな蜘蛛《くも》が下りたように、行燈《あんどう》の前へ、もそりと出て、蚊帳の前をスーと通る。……擦れ擦れに見えたけれども、縁側を歩行《ある》いたろう。が、宙を行《ゆ》くようだ。それも、黒雲の中にある、青田のへりでも伝うッて形でね。
京町の角の方から、水道尻の方へ、やがて、暗い処へ入って隠れたのは、障子の陰か、戸袋の背後《うしろ》になったらしい。
遣手《やりて》です、風が、大引前《おおびけまえ》を見廻ったろう。
それが見えると、鉄棒《かなぼう》が遠くを廻った。……カラカラ、……カンカン、何だか妙だね、あの、どうか言うんだっけ。」
「チャン、カン、チャンカン……ですか。」と民弥の顔を瞻《みつ》めながら、軽く火箸《ひばし》を動かしたが、鉄瓶にカタンと当った。
「あ、」
と言って、はっと息して、
「ああ、吃驚《びっくり》した。」
「ト今度は、その音に、ずッと引着けられて、廓中《くるわじゅう》の暗い処、暗い処へ、連れて歩行《ある》くか、と思うばかり。」
十七
「話してる私も黙れば、聞いている人たちも、ぴったり静まる……
と遣手《やりて》らしい三階の婆々《ばばあ》の影が、蚊帳の前を真暗《まっくら》な空の高い処で見えなくなる、――とやがてだ。
二三度続け様に、水道尻居まわりの屋根近《やねぢか》な、低い処で、鴉《からす》が啼《な》いた。夜烏も大引けの暗夜《やみ》だろう、可厭《いや》な声といったら。
すたすたとけたたましい出入りの跫音《あしおと》、四ツ五ツ入乱れて、駆出す……馳込《はしりこ》むといったように、しかも、なすりつけたように、滅入《めい》って、寮の門《かど》が慌《あわただ》しい。
私の袂《たもと》を、じっと引張って、
(あれ、照吉|姉《ねえ》さんが亡くなるんじゃなくッて)ッて、少し震えながらお三輪が言うと、
(引潮時だねちょうど……)と溜息《ためいき》をしたは、油絵の額縁を拵《こしら》える職人風の鉄拐《てっか》な人で、中での年寄だった。
婦人《おんな》の一人が、
(姉さん、姉さん、)
と、お三輪を、ちょうどその時だった、呼んだのが、なぜか、気が移って、今息を引取ろうという……照吉の枕許に着いていて言うような、こう堅くなった沈んだ声だった。
(ははい、)
とこれも幽《かすか》にね。
浜谷ッて人だ、その婦人は、お蘭さんというのが、
(内にお婆さんはおいでですか。)
と聞くじゃないか。」
「まあ、」と梅次は呼吸《いき》を引く。
民弥は静《しずか》に煙管《きせる》を置いて、
「お才さんだって、年じゃあるが、まだどうして、姉《あね》えで通る、……婆さんという見当では無い。皆《みんな》、それに、それだと顔は知っている。
女中がわりに送迎《おくりむかえ》をしている、前《ぜん》に、それ、柳橋の芸者だったという、……耳の遠い、ぼんやりした、何とか云う。」
「お組さん、」
「粋《いき》な年増《としま》だ、可哀相に。もう病気であんなになってはいるが……だって白髪《しらが》の役じゃ無い。
(いいえ、お婆さんは居ませんの。)
(そう……)
と婦人が言ったっけ。附着《くッつ》くようにして、床の間の傍正面《わきしょうめん》にね、丸窓を背負《しょ》って坐っていた、二人、背後《うしろ》が突抜けに階子段《はしごだん》の大きな穴だ。
その二人、もう一人のが明座ッてやっぱり婦人で、今のを聞くと、二言ばかり、二人で密々《ひそひそ》と言ったが否や、手を引張合《ひっぱりあ》った様子で、……もっとも暗くってよくは分らないが。そしてスーと立って、私の背後《うしろ》へ、足袋の白いのが颯《さっ》と通って、香水の薫《かおり》が消えるように、次の四畳を早足でもって、トントンと階下《した》へ下りた。
また、皆《みんな》、黙ったっけ。もっとも誰が何をして、どこに居るんだか、暗いから分らない。
しばらく、袂《たもと》の重かったのは、お三輪がしっかり持ってるらしい。
急に上《あが》って来ないだろう。
(階下《した》じゃ起きているかい。)
(起きてるわ、あの、だけど、才《さあ》ちゃんは照吉さんの許《とこ》へちょっと行ってるかも知れなくってよ。)
(何は、何だっけ。)
(お組さん、……ええ、火鉢の許《とこ》に居てよ。でも、もうあの通りでしょう、坐眠《いねむり》をしているかも分らないわ。)
(三輪ちゃんか、ちょっと見てあげてくれないか、はばかりが分らないのかも知れないぜ。)と一人気を着けた。
(ええ、)
てッたが、もう可恐《こわ》くッて一人では立てません。
もう一ツ、袂が重くなって、
(一所に……兄さん、)
と耳の許《とこ》へ口をつける……頬辺《ほっぺた》が冷《ひや》りとするわね、鬢《びん》の毛で。それだけ内証《ないしょ》のつもりだろうが、あの娘《こ》だもの、皆《みんな》、聞えるよ。
(ちょいと、失礼。)
(奥方に言いつけますぜ。)と誰か笑った、が、それも陰気さ。」
十八
「暗い階子《はしご》をすっと抜ける、と階下《した》は電燈《でんき》だ、お三輪は颯《さっ》と美しい。
見ると、どうです……二階から下して来て、足の踏場も無かった、食物、道具なんか、掃いたように綺麗に片附いて、門《かど》を閉めた。節穴へ明《あかり》が漏れて、古いから森のよう、下した蔀《しとみ》を背後《うしろ》にして、上框《あがりがまち》の
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