上げるような杉の大木の茂った中から、スーと音がして、ばったり足許へ落ちて来たものがあるの。常燈明の細い灯《あかり》で、ちょいと見ると、鳥なんですって、死んだのだわねえ、もう水を浴びたように悚然《ぞっ》として、何の鳥だかよくも見なかったけれど、謎々よ、……解くと、弟は助からないって事になる……その時は落胆《がっかり》して、苔《こけ》の生えた石燈籠《いしどうろう》につかまって、しばらく泣きましたって、姉さんがね、……それでも、一念が届いて弟が助かったんですから……思い置く事はありません、――とさ。
 ああ、きっとそれじゃ、……その時治らない弟さんの身代りに、自分がお約束をしたんだろう。それだから、ああやって覚悟をして死んで行《ゆ》くのを待っておいでだ。事によったら、月日なんかも、その時|極《き》めて頼んだのかも分らない、可哀相だ、つて才ちゃんも泣いていました。
 そしてね、今度の世は、妹に生れて来て甘えよう、私は甘えるものが無い。弟は可羨《うらやま》しい、あんな大きななりをして、私に甘ったれますもの。でも、それが可愛くって殺されない。前《さき》へ死ぬ方がまだ増《まし》だ、あの子は男だから堪《こら》えるでしょう、……後へ残っちゃ、私は婦《おんな》で我慢が出来ないって言ったんですとさ。……ちょいとどうしましょう。私、涙が出てよ。……
 どうかして治らないものでしょうか。誰方《どなた》か、この中に、お医者様の豪《えら》い方はいらっしゃらなくって、ええ、皆さん。」
 一座|寂然《ひっそり》した。
「まあ、」
「ねえ……」
 と、蘭子と種子が言交わす。
「弱ったな、……それは、」とちょいと間を置いてから、子爵が呟《つぶや》いたばかりであった。
「時に、」
 と幹事が口を開いて、
「佐川さん、」
「は、」
 と顔を上げたが、民弥はなぜかすくむようになって、身体《からだ》を堅く俯向《うつむ》いてそれまで居た。
「お話しの続きです。――貴下《あなた》がその今日途中でその、何か、どうかなすったという……それから起ったんですな、三輪ちゃんの今の話は。」
「そうでしたね。」とぼやりと答える。
「その……近所のお産のありそうな処は無いかって、何か、そういったような事から。」
「ええ、」
 とただ、腕を拱《こまぬ》く。
「どういう事で、それは、まず……」
「一向、詰《つま》らない、何、別に、」と可恐《おそろ》しく謙遜《けんそん》する。
 人々は促した。――

       十三

「――気が射《さ》したから、私は話すまい、と思った。けれども、行懸《ゆきがか》り[#ルビの「ゆきがか」は底本では「ゆきかが」]で、揉消《もみけ》すわけにも行かなかったもんだから、そこで何だ。途中で見たものの事を饒舌《しゃべ》ったが、」
 と民弥は、西片町《にしかたまち》のその住居《すまい》で、安価《やす》い竈《かまど》を背負《しょ》って立つ、所帯の相棒、すなわち梅次に仔細《しさい》を語る。……会のあった明晩《あくるばん》で、夏の日を、日が暮れてからやっと帰ったが、時候あたりで、一日寝ていたとも思われる。顔色も悪く、気も沈んで、太《いた》く疲れているらしかった。
 寒気がするとて、茶の間の火鉢に対向《さしむか》いで、
「はじめはそんな席へ持出すのに、余り栄《は》えな過ぎると思ったが、――先刻《さっき》から言った通り――三輪坊《みいぼう》がしたお照さんのその話を聞いてからは、自分だけかも知れないが、何とも言われないほど胸が鬱《ふさ》いだよ。第一、三輪坊が、どんなにか、可恐《こわ》がるだろう、と思ってね。
 場所が谷中だと言うんだろう、……私の出会ったのもやっぱりそこさ。――闇《くら》がり坂《ざか》を通った時だよ。」
「はあ、」と言って、梅次は、団扇《うちわ》を下に、胸をすっと手を支《つ》いた。が、黒繻子《くろじゅす》[#ルビの「くろじゅす」は底本では「くろじゅず」]の引掛《ひっか》け結びの帯のさがりを斜《ななめ》に辷《すべ》る、指の白さも、団扇の色の水浅葱《みずあさぎ》も、酒気《さけけ》の無い、寂しい茶の間に涼し過ぎた。
 民弥は寛《くつろ》ぎもしないで、端然《ちゃん》としながら、
「昨日《きのう》は、お葬式《とむらい》が後《おく》れてね、すっかり焼香の済んだのが、六時ちっと廻った時分。後で挨拶をしたり、……茶屋へ引揚げて施主たちに分れると、もう七時じゃないか。
 会は夜あかしなんだけれど、ゆっくり話そうって、幹事からの通知は七時遅からず。私にも何かの都合で、一足早く。承知した、と約束がしてある。……
 久しぶりのお天気だし、涼《すずし》いし、紋着《もんつき》で散歩もおかしなものだけれども、ちょうど可《い》い。廓《なか》まで歩行《ある》いて、と家《うち》を出る時には思ったんだが、時間が遅れたから、茶屋の角で直ぐに腕車《くるま》をそう言ってね。
 乗ってさ。出る、ともう、そこらで梟《ふくろう》の声がする。寂寥《しん》とした森の下を、墓所に附いて、薄暮合いに蹴込《けこみ》が真赤《まっか》で、晃々《きらきら》輪が高く廻った、と思うと、早や坂だ。――切立《きった》てたような、あの闇がり坂、知ってたっけか。」
「根岸から天王寺へ抜ける、細い狭い、蔽被《おっかぶ》さった処でしょう。――近所でも芋坂の方だと、ちょいちょい通って知ってますけれど、あすこは、そうね、たった一度。可厭《いや》な処だわね、そこでどうかなすったんですか。」
「そうさ、よく路傍《みちばた》の草の中に、揃えて駒下駄《こまげた》が脱いであったり、上の雑樹の枝に蝙蝠傘《こうもり》がぶら下っていたり、鉄道で死ぬものは、大概あの坂から摺込《ずりこ》むってね。手巾《ハンケチ》が一枚落ちていても悚然《ぞっ》とする、と皆《みんな》が言う処だよ。
 昼でも暗いのだから、暮合《くれあい》も同《おんな》じさ。別に夜中では無し、私は何にも思わなかったんだが、極《きま》って腕車《くるま》から下りる処さ、坂の上で。あの急勾配だから。
 下りるとね、車夫《わかいし》はたった今乗せたばかりの処だろう、空車《からぐるま》の気前を見せて、一《ひと》つ駆《が》けで、顱巻《はちまき》の上へ梶棒《かじぼう》を突上げる勢《いきおい》で、真暗《まっくら》な坂へストンと摺込《すべりこ》んだと思うと、むっくり線路の真中《まんなか》を躍り上って、や、と懸声だ。そこはまだ、仄《ほんの》り明《あかる》い、白っぽい番小屋の、蒼《あお》い灯《ひ》を衝《つッ》と切って、根岸の宵の、蛍のような水々《みずみず》した灯《あかり》の中へ消込《きえこ》んだ。
 蝙蝠《こうもり》のように飛ぶんだもの、離れ業と云って可《い》い速さなんだから、一人でしばらく突立《つった》って見ていたがね、考えて見ると、面白くも何とも無いのさ。
 足許だけぼんやり見える、黄昏《たそがれ》の木《こ》の下闇《したやみ》を下り懸けた、暗さは暗いが、気は晴々《せいせい》する。
 以前と違って、それから行《ゆ》く、……吉原には、恩愛もなし、義理もなし、借もなし、見得外聞があるじゃなし……心配も苦労も無い。叔母さんに貰《もら》った仲の町の江戸絵を、葛籠《つづら》から出して頬杖《ほおづえ》を支《つ》いて見るようなもんだと思って。」

       十四

「坂の中途で――左側の、」
 と長火鉢の猫板を圧《おさ》えて言う。
「樹の根が崩れた、じとじと湿っぽい、赤土の色が蚯蚓《みみず》でも団《かたま》ったように見えた、そこにね。」
「ええ」
 と梅次は眉を顰《ひそ》めた。
「大丈夫、蛇の話じゃ無い。」とこれは元気よく云って、湯呑《ゆのみ》で一口。
「人が居たのさ。ぼんやりと小さく蹲《しゃが》んで、ト目に着くと可厭《いや》な臭気《におい》がする、……地《つち》へ打坐《ぶっすわ》ってでもいるかぐらい、ぐしゃぐしゃと挫《ひしゃ》げたように揉潰《もみつぶ》した形で、暗いから判然《はっきり》せん。
 が、別に気にも留めないで、ずっとその傍《わき》を通抜けようとして、ものの三足《みあし》ばかり下りた処だった。
(な、な、)と言う。
 雪駄直《せったなお》しだか、唖《おうし》だか、何だか分らない。……聞えたばかり。無論、私を呼んだと思わないから、構わず行《ゆ》こうとすると、
(なあ、)と、今度はちっとぼやけたが、大きな声で、そして、
(袴《はかま》着た殿い、な、)と呼懸ける、確かに私を呼んだんだ。どこの山家《やまが》のものか知らんが、変な声で、妙なものいいさ。「袴着た、」と言うのか、「墓場来た、」と言うのか、どっちにしても「殿」は気障《きざ》だ。
 が、確《たしか》に呼留めたに相違無いから、
(俺《おれ》か。)
(それよ、)……と、気になる横柄な返事をして、もやもやと背伸びをして立った……らしい、頭《つむり》を擡《もた》げたのか、腰を起《た》てたのか、上下《うえした》同《おんな》じほどに胴中《どうなか》の見えたのは、いずれ大分の年紀《とし》らしい。
 爺《じじい》か、婆《ばばあ》か、ちょっと見には分らなかったが、手拭《てぬぐい》だろう、頭にこう仇白《あだじろ》いやつを畳んで載せた。それが顔に見えて、面《つら》は俯向《うつむ》けにしながら、杖《つえ》を支《つ》いた影は映らぬ。
(殿、な、何処《いずく》へな。)
 と、こうなんだ。
 私は黙って視《なが》めたっけ。
 じっと身動きもしないで、返事を待っているようだからね、
(吉原へ。)
 と綺麗に言ったが、さあ、以前なら、きっとそうは言わなかったろう。その空がさっぱりと晴々した心持だから、誰に憚《はばか》る処も無い。おつけ晴れたのが、不思議に嬉しくもあり、また……幼い了簡《りょうけん》だけれども、何か、自分でも立派に思った。
(真北じゃな、ああ、)
 とびくりと頷《うなず》いて、
(火の車で行《ゆ》かさるか。)[#「)」は底本では「」」]
 馬鹿にしている、……此奴《こいつ》は高利貸か、烏金《からすがね》を貸す爺婆《じじばば》だろうと思ったよ。」
 と民弥は寂《さみ》しそうなが莞爾《にっこり》した。
 梅次がちっと仰向《あおむ》くまで、真顔で聞いて、
「まったくだわねえ。」
「いや、」
 民弥は、思出したように、室《へや》の内《なか》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しながら、
「烏金……と言えば、その爺婆は、荒縄で引括《ひっくく》って、烏の死んだのをぶら下げていたのよ。」
 梅次は胸を突かれたように、
「へい、」と云って、また、浅葱《あさぎ》のその団扇《うちわ》の上へ、白い指。
「堪《たま》らない。幾日《いくか》経《た》ったんだか、べろべろに毛が剥《は》げて、羽がぶらぶらとやっと繋《つなが》って、地《じ》へ摺《す》れて下ってさ、頭なんざ爛《ただ》れたようにべとべとしている、その臭気《におい》だよ。何とも言えず変に悪臭いのは、――奴《やつ》の身体《からだ》では無い。服装《みなり》も汚くはないんだね、折目の附いたと言いたいが、それよりか、皺《しわ》の無いと言った方が適《い》い、坊さんか、尼のような、無地の、ぬべりとしたのでいた。
 まあ、それは後での事。
(何の車?……)と聞返した。
(森の暗さを、真赤《まっか》なものが、めいらめいら搦《から》んで、車が飛んだでやいの。恐ろしやな、活《い》きながら鬼が曳《ひ》くさを見るかいや。のう殿。私《わし》は、これい、地板《じびた》へ倒りょうとしたがいの。……うふッ、)と腮《あご》の震えたように、せせら笑ったようだっけ、――ははあ……」

       十五

「今の腕車《くるま》に、私が乗っていたのを知って、車夫《わかいし》が空《から》で駆下りた時、足の爪を轢《ひ》かれたとか何とか、因縁を着けて、端銭《はした》を強請《ゆす》るんであろうと思った。
 しかし言種《いいぐさ》が変だから、
(何の車?)ともう一度……わざと聞返しながら振返ると、
(火の車、)
 と頭から、押冠《おっかぶ》せるように、いやに横柄に言って、もさりと歩行《ある》
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