、ついおもだか屋にあった事。品川沖の姪の影、真乳《まっち》の渡《わたし》の朧蓑《おぼろみの》、鰻掻《うなぎかき》の蝮笊《まむしざる》。
犬神、蛇を飼う婦《おんな》、蟇《ひきがえる》を抱いて寝る娘、鼈《すっぽん》の首を集める坊主、狐憑《きつねつき》、猿小僧、骨なし、……猫屋敷。
で、この猫について、座の一人が、かつてその家に飼った三毛で、年久しく十四五年を経た牝《めす》が、置炬燵《おきごたつ》の上で長々と寝て、密《そっ》と薄目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》くと、そこにうとうとしていた老人《としより》の顔を伺った、と思えば、張裂けるような大欠伸《おおあくび》を一つして、
(お、お、しんど)と言って、のさりと立った。
話した発奮《はずみ》に、あたかもこの八畳と次の長六畳との仕切が柱で、ずッと壁で、壁と壁との間が階子段《はしごだん》と向合《むかいあわ》せに※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓《れんじまど》のように見える、が、直ぐに隣家《となり》の車屋の屋根へ続いた物干。一跨《ひとまた》ぎで出られる。……水道尻まで家続きだけれども、裏手、廂合《ひあわい》が連《つらな》るばかり、近間《ちかま》に一ツも明《あかり》が見えぬ、陽気な座敷に、その窓ばかりが、はじめから妙に陰気で、電燈《でんき》の光も、いくらかずつそこへ吸取られそうな気勢《けはい》がしていた。
その物干の上と思う処で……
七
「ゴロロロロ、」
と濁った、太い、変に地響きのする声がした、――不思議は無い。猫が鳴いた事は、誰の耳にも聞えたが、場合が場合で、一同が言合わせたごとく、その四角な、大きな、真暗《まっくら》な穴の、遥《はる》かな底は、上野天王寺の森の黒雲が灰色の空に浸《にじ》んで湧上《わきあが》る、窓を見た。
フト寂しい顔をしたのもあるし、苦笑いをしたのもあり、中にはピクリと肩を動かした人もあった。
「三輪《みい》ちゃん、内の猫かい。」
民弥は、その途端に、ひたと身を寄せたお三輪に訊《たず》ねた。……遠慮をしながら、成《なる》たけこの男の傍《そば》に居て、先刻《さっき》から人々の談話《はなし》の、凄《すご》く可恐《おそろし》い処というと、密《そっ》と縋《すが》り縋り聞いていたのである。
「いいえ、内の猫は、この間死にました。」
「死んだ?」
「ええ、どこの猫でしょう……近所のは、皆《みんな》たま(猫の名)のお友達で、私は声を知ってるんですけれど……可厭《いや》な声ね。きっと野良猫よ。」
それと極《きま》っては、内所《ないしょ》の飼猫でも、遊女《おいらん》の秘蔵でも、遣手《やりて》の懐児《ふところご》でも、町内の三毛、斑《ぶち》でも、何のと引手茶屋の娘の勢《いきおい》。お三輪は気軽に衝《つ》と立って、襟脚を白々と、結綿《ゆいわた》の赤い手絡《てがら》を障子の桟《さん》へ浮出したように窓を覗《のぞ》いた。
「遁《に》げてよ。もう居やしませんわ。」
一人の婦人が、はらはらと後毛《おくれげ》のかかった顔で、
「姉《ねえ》さん。」
「はーい、」と、呼ばれたのを嬉しそうな返事をする。
「閉めていらっしゃいな。」
で、蓮葉《はすは》にぴたり。
後に話合うと、階下《した》へ用達しになど、座を起《た》って通る時、その窓の前へ行《ゆ》くと、希代《きたい》にヒヤリとして風が冷い。処で、何心なく障子をスーツと閉めて行《ゆ》く、……帰りがけに見るとさらりと開《あ》いている。が、誰もそこへ坐るのでは無いから、そのままにして座に戻る。また別人が立つ、やっぱりぞっとするから閉めて行《ゆ》く、帰りがけにはちゃんと開けてあった。それを見た人は色々で、細目の時もあり、七八分目の時もあり、開放しの時もあった、と言う。
さて、そのときまでは、言ったごとく、陽気立って、何が出ても、ものが身に染むとまでには至らなかったが、物語の猫が物干の声になってから、各自《おのおの》言合わせたように、膝が固まった。
時々灰吹の音も、一ツ鉦《がね》のようにカーンと鳴って、寂然《しん》と耳に着く。……
気合が更《あらた》まると、畳もかっと広くなって、向合《むかいあ》い、隣同士、ばらばらと開けて、間《あわい》が隔るように思われるので、なおひしひしと額を寄せる。
「消そうか、」
「大人気ないが面白い。」
ここで電燈《でんき》が消えたのである。――
「案外身に染みて参りました。人数の多過ぎなせいもありましょう。わざと灯《あかり》を消したり、行燈《あんどう》に変えたりしますと、どうもちと趣向めいて、バッタリ機巧《からくり》を遣《や》るようで一向潮が乗りません。
前《せん》の向島の大連の時で、その経験がありますから、今夜は一番《ひとつ》、明《あかり》晃々《こうこう》とさして、どうせ顕《あらわ》れるものなら真昼間《まっぴるま》おいでなさい、明白で可《い》い、と皆さんとも申合せていましたっけ。
いや、こうなると、やっぱり暗い方が配合《うつり》が可《よ》うございます、身が入りますぜ、これから。」
と言う、幹事雑貨店主の冴《さ》えた声が、キヤキヤと刻込《きざみこ》んで、響いて聞えて、声を聞く内だけ、その鼻の隆《たか》い、痩《や》せて面長《おもなが》なのが薄ら蒼《あお》く、頬のげっそりと影の黒いのが、ぶよぶよとした出処《でどこ》の定かならぬ、他愛の無い明《あかり》に映って、ちょっとでも句が切れると、はたと顔も見えぬほどになったのである。
八
灯《あかり》は水道尻のその瓦斯《がす》と、もう二ツ――一ツは、この二階から斜違《はすっかい》な、京町《きょうまち》の向う角の大きな青楼の三階の、真角《まっかど》一ツ目の小座敷の障子を二枚両方へ明放した裡《うち》に、青い、が、べっとりした蚊帳《かや》を釣って、行燈《あんどう》がある、それで。――夜目には縁も欄干《らんかん》も物色《うかが》われず、ただその映出《うつしだ》した処だけは、たとえば行燈の枠の剥《は》げたのが、朱塗《しゅぬり》であろう……と思われるほど定かに分る。……そこが仄明《ほのあかる》いだけ、大空の雲の黒さが、此方《こなた》に絞った幕の上を、底知れぬ暗夜《やみ》にする。……が、廓《くるわ》が寂れて、遠く衣紋坂《えもんざか》あたりを一つ行《ゆ》く俥《くるま》の音の、それも次第に近くはならず、途中の電信の柱があると、母衣《ほろ》が凧《いかのぼり》。引掛《ひっかか》りそうに便《たより》なく響《ひびき》が切れて行《ゆ》く光景《ありさま》なれば、のべの蝴蝶《ちょうちょう》が飛びそうな媚《なまめ》かしさは無く、荒廃したる不夜城の壁の崩れから、菜畠になった部屋が露出《むきだ》しで、怪しげな朧月《おぼろづき》めく。その行燈の枕許《まくらもと》に、有ろう? 朱羅宇《しゅらお》の長煙管《ながぎせる》が、蛇になって動きそうに、蓬々《おどろおどろ》と、曠野《あれの》に※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》う夜の気勢《けはい》。地蔵堂に釣った紙帳より、かえって侘《わび》しき草の閨《ねや》かな。
風の死んだ、寂《しん》とした夜で、あたかも宙に拡げたような、蚊帳のその裙《すそ》が、そよりと戦《そよ》ぐともしないのに、この座の人の動くに連れて、屋の棟とともに、すっと浮いて上ったり、ずうと行燈と一所に、沈んで下ったりする。
もう一つは同じ向側の、これは低い、幕の下に懸《かか》って、真暗《まっくら》な門《かど》へ、奥の方から幽かに明《あかり》の漏れるのが、戸の格子の目も疎《まばら》に映って、灰色に軒下の土間を茫《ぼう》と這《ほ》うて、白い暖簾《のれん》の断《ちぎ》れたのを泥に塗《まみ》らした趣がある。それと二つである。
その家は、表をずッと引込《ひっこ》んだ処に、城の櫓《やぐら》のような屋根が、雲の中に陰気に黒い。両隣は引手茶屋で、それは既に、先刻《さっき》中引けが過ぎる頃、伸上って蔀《しとみ》を下ろしたり、仲の町の前後《あとさき》を見て戸を閉めたり、揃って、家並《やなみ》は残らず音も無いこの夜更《よふけ》の空を、地《じ》に引く腰張の暗い板となった。
時々、海老屋の大時計の面《つら》が、時間《とき》の筋を畝《うね》らして、幽《かすか》な稲妻に閃《ひら》めき出るのみ。二階で便《たよ》る深夜の光は、瓦斯《がす》を合わせて、ただその三つの灯《ともしび》となる。
中のどれかが、折々|気紛《きまぐ》れの鳥影の映《さ》すように、飜然《ひらり》と幕へ附着《くッつ》いては、一同の姿を、種々《いろいろ》に描き出す。……
時しもありけれ、魯智深が、大《おおい》なる挽臼《ひきうす》のごとき、五分刈頭を、天井にぐるりと廻して、
「佐川さんや、」
と顔は見えず……その天井の影が動く。話の切目で、咳《しわぶき》の音も途絶えた時で、ひょいと見ると誰の目にも、上にぼんやりと映る、その影が口を利くかと思われる。従って、声もがッと太く渦巻く。
「変に静まりましたな、もって来いという間《ま》の時じゃ、何ぞお話し下さらんか。宵からまだ、貴下《あなた》に限って、一ツも凄《すご》いのが出ませんでな、所望ですわ。」
成程、民弥は聞くばかりで、まだ一題も話さなかった。
「差当り心当りが無いものですから、」
とその声も暗さを辿《たど》って、
「皆さんが実によく、種々《いろいろ》な可恐《おそろし》いのを御存じです。……確《たしか》にお聞きになったり、また現に逢《あ》ったり見たりなすっておいでになります。
私は、又聞きに聞いたのだの、本で読んだのぐらいな処で、それも拵《こしら》えものらしいのが多いんですから、差出てお話するほどのがありません。生憎《あいにく》……ッても可笑《おかし》いんですが、ざらある人魂《ひとだま》だって、自分で見た事はありませんでね。怪《あやし》い光物といっては、鼠が啣《くわ》え出した鱈《たら》の切身が、台所でぽたぽたと黄色く光ったのを見て吃驚《びっくり》したくらいなものです。お話にはなりません。
けれども、嬉しがって一人で聞かしてばかり頂いていたんでは、余り勝手過ぎます。申訳が無いようですから、詰《つま》らない事ですが、一つ、お話し申しましょうか。
日の暮合いに、今日、現に、此家《ここ》へ参ります途中でした。」
九
「可恐《こわ》い事、ちょっと、可恐くって。」
と例の美しい若い声が身近に聞えて、ぞっとするように袖を窄《すぼ》めた気勢《けはい》がある。
「私に附着《くッつ》いていらっしゃい。」と蘭子が傍《そば》で、香水の優しい薫《かおり》。
「いや、下らないんですよ、」
と、慌てたように民弥は急いで断って、
「ちと薄気味でも悪いようだと、御愛嬌《ごあいきょう》になるんだけれど……何《なん》にも彼《か》にも、一向要領を得ないんです、……時にだね、三輪《みい》ちゃん。」
とちと更《あらた》まって呼んだ時に、皆《みんな》が目を灌《そそ》ぐと、どの灯《あかり》か、仏壇に消忘れたようなのが幽《かすか》に入って、スーと民弥のその居直った姿を映す。……これは生帷《きびら》の五ツ紋に、白麻の襟を襲《かさ》ねて、袴《はかま》を着《ちゃく》でいた。――あたかもその日、繋《つな》がる縁者の葬式《とむらい》を見送って、その脚で廻ったそうで、時節柄の礼服で宵から同じ着附けが、この時際立って、一人、舞台へ出たように目に留まった。麻は冷たい、さっくりとして膚《はだ》にも着かず、肩肱《かたひじ》は凜々《りり》しく武張《ぶば》ったが、中背で痩《や》せたのが、薄ら寒そうな扮装《なり》、襟を引合わせているので物優しいのに、細面《ほそおもて》で色が白い。座中では男の中《うち》の第一《いっち》年下の二十七で、少々《わかわか》しいのも気の弱そうに見えるのが、今夜の会には打ってつけたような野辺送りの帰りと云う。
気のせいか、沈んで、悄《しお》れて見える処へ、打撞《ぶつ》かったその冷い紋着
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