々《ひそひそ》と話をするのが、寂《しん》とした人通《ひとどおり》の無い、樹林《きばやし》の中じゃ、その筈《はず》でしょう。
 お引受け申して、こりや思懸けない、と相応に苦労をしました揚句《あげく》、まず……昔の懺悔《ざんげ》をしますような取詰め方で、ここを頼んだのでございます。
 言訳を申すじゃありませんが、以前だとて、さして馴染《なじみ》も無い家《うち》が、快く承わってくれまして、どうやらお間に合わせます事が出来ました。
 ちと唐突《だしぬけ》に変った誂《あつら》えだもんですから、話の会だと言いますと、
(はあ、おはなの……)なんてな、此家《ここ》の姉御《あねご》が早合点《はやがってん》で……」
 と笑いながら幹事が最初|挨拶《あいさつ》した、――それは、神田辺の沢岡という、雑貨店の好事《ものずき》な主人であった。

       四

 連中には新聞記者も交《まじ》ったり、文学者、美術家、彫刻家、音楽家、――またそうした商人《あきんど》もあり、久しく美学を研究して、近頃欧洲から帰朝した、子爵《ししゃく》が一人。女性《にょしょう》というのも、世に聞えて、……家《うち》のお三輪は、婦人何々などの雑誌で、写真も見れば、名も読んで知った方。
 で、こんな場所は、何の見物にも、つい足踏《あしぶみ》をした事の無いのが多い。が、その人たちも、誰も会場が吉原というのを厭《いと》わず、中にはかえって土地に興味《おもしろみ》を持って、到着帳に記《つ》いたのもある。
「吉野橋で電車を下りますまでは無事だったんですよ。」
 とそれについて婦人の一人、浜谷蘭子《はまやらんこ》が言出すと、可恐《おそろし》く気の早いのが居て、
「ええ、何か出ましたかな。」
「まさか、」
 と手巾《ハンケチ》をちょっと口に当てて、瞼《まぶた》をほんのりと笑顔になって、
「お化《ばけ》が貴下《あなた》、わざわざ迎いに出はしませんよ。方角が分りませんもの。……交番がござんしたから、――伺いますが、水道尻はどう参りましょうかって聞いたんです。巡査《おまわり》さんが真面目《まじめ》な顔をして、
(水道はその四角《よつかど》の処にあります。)って丁寧に教えられて、困ったんです。」
「水を飲みたくって、それで尋ねたんだと思ったんでしょうよ。」とその連《つれ》だったもう一人の、明座種子《あかざたねこ》が意気な姿で、そして膝に手をきちんとして言う。
「私もはじめてです。両側はそれでも画《え》に描いたようですな。」と岩木という洋画家が応じた。
「御同然で、私はそれでも、首尾よく間違えずに来たですよ。北廓《ほっかく》だというから、何でも北へ北へと見当を着けるつもりで、宅から磁石を用意に及んだものです。」と云う堀子爵が、ぞんざいな浴衣がけの、ちょっきり結びの兵児帯《へこおび》に搦《から》んだ黄金鎖《きんぐさり》には、磁石が着いていも何にもせぬ。
 花和尚がその諸膚脱《もろはだぬぎ》の脇の下を、自分の手で擽《くすぐ》るように、ぐいと緊《し》めて腹を揺《ゆす》った。
「そろそろ怪談になりますわ。」
 確か、その時分であった。壇の上口《あがりくち》に気勢《けはい》がすると、潰《つぶ》しの島田が糶上《せりあが》ったように、欄干《てすり》隠れに、少《わか》いのが密《そっ》と覗込《のぞきこ》んで、
「あら、可厭《いや》だ。」
 と一つ婀娜《あだ》な声を、きらりと銀の平打《ひらうち》に搦めて投込んだ、と思うが疾《はや》いが、ばたばたと階下《した》へ駆下りたが、
「嘘、居やしないわ。」と高い調子。
 二言、三言、続いて花やかに笑ったのが聞えた。駒下駄《こまげた》の音が三つ四つ。
「覚えていらっしゃいよ。」
「お喧《やかま》しゅう……」
 魯智深は、ずかずかと座を起《た》って、のそりと欄干《てすり》に腹を持たせて、幕を透かして通《とおり》を瞰下《みおろ》し、
「やあ、鮮麗《あざやか》なり、おらが姉《ねえ》さん三人ござる。」
「君、君、その異形《いぎょう》なのを空中へ顕《あらわ》すと、可哀相《かわいそう》に目を廻すよ。」と言いながら、一人が、下からまた差覗《さしのぞ》いた。
「家《うち》の娘かね。」
 と子爵が訊《き》く。差向いに居た民弥が、
「いいえ。」
「何です。」
「やっぱり通り魔の類《たぐい》でしょうな。」
「しかし、不意だからちょっと驚きましたよ。」とその洋画家が……ちょうど俯向《うつむ》いて巻莨《まきたばこ》をつけていた処、不意を食《くら》った眼鏡が晃《きら》つく。
 当夜の幹事が苦笑いして、
「近所の若い妓《こ》どもです……御存じの立旦形《たておやま》が一人、今夜来ます筈《はず》でしたが、急用で伊勢へ参って欠席しました。階下《した》で担いだんでしょう。密《そっ》と覗《のぞ》きに……」
「道理こそ。」
「(あら可厭《いや》だ)は酷《ひど》いな。」

       五

「おおおお、三人が手を曳《ひき》ッこで歩行《ある》いて行《ゆ》きます……仲の町も人通りが少いなあ、どうじゃろう、景気の悪い。ちらりほらりで軒行燈《のきあんどう》に影が映る、――海老屋《えびや》の表は真暗《まっくら》だ。
 ああ、揃って大時計の前へ立佇《たちどま》った……いや三階でちょっとお辞儀をするわ。薄暗い処へ朦朧《もうろう》と胸高な扱帯《しごき》か何かで、寂《さみ》しそうに露《あらわ》れたのが、しょんぼりと空から瞰下《みお》ろしているらしい。」
 と円い腕を、欄干《てすり》が挫《ひしゃ》げそうにのッしと支《つ》いて、魯智深の腹がたぶりと乗出す……
「どこだ、どれ、」
 と向返る子爵の頭へ、さそくに、ずずんと身を返したが、その割に気の軽さ。突然《いきなり》見越入道で、蔽《おお》われ掛《かか》って、
「ももんがあ! はッはッはッ。」
「失礼、只今《ただいま》は、」
 と、お三輪が湯を注《さ》しに来合わせて、特に婦人客《おんなきゃく》の背後《うしろ》へ来て、極《きまり》の悪そうに手を支《つ》いた。
「才《さあ》ちゃんが、わけが分らなくって不可《いけ》ません、芸者|衆《しゅ》なんか二階へ上げまして。」
 と言《ことば》も極《きま》って含羞《はにか》んだ、紅《あか》い手絡《てがら》のしおらしさ。一人の婦人が斜めに振向き、手に持ったのをそのままに、撫子《なでしこ》に映《さ》す扇の影。
「いいえ。そして……ちとお遊びなさいませ。」
「はい、あの、後にどうぞ。」
 と嬉しそうに莞爾《にっこり》しながら、
「あの、明る過ぎましたら電燈《でんき》をお消し下さいましな、燭台《しょくだい》をそこへ出しておきました。」
 と幹事に言う。雑貨店主が、
「難有《ありがと》う、よくお心の着きます事で。」
「あら、可厭《いや》だ。」……と蓮葉《はすは》になる。
「二ツ、」
 と一人高らかに呼《よば》わった。……芸者のと、(可厭だ)が二度目、という意味だけれども、娘には気が着かぬ。
「え?」
 民弥が静《しずか》に振返って、
「三輪《みい》ちゃんの年紀《とし》は二十《はたち》かって?」
「あら、可厭だ。」
「三つ!」
「じゃ、三十かってさ。」と雑貨店主が莞爾《にっこり》する。
「知らないわ。」
「まあまあ、可《い》いわ、お話しなさい。」と花和尚、この時、のさのさと座に戻る。
「お茶を入れかえて参ります。」
 と、もう階子《はしご》の口。ちょっと留まって、
「そして才ちゃんに、御馳走をさせましょうね。兄さん、(吃驚《びっくり》したように)……あの、先生。」
「心得たもんですな。」と洋画家が、煙草《たばこ》の濃い烟《けむり》の中で。
「貴女方《あなたがた》の御庇《おかげ》です……敬意を表して、よく小老実《こまめ》に働きますよ。」と民弥が婦人だちを見向いて云う。と二人が一所に、言合わせたように美しく莞爾《にっこり》して、
「どういたしまして。」
「いや、事実ですよ……家はこんなでも、裁縫《おはり》に行《ゆ》く先方《さき》に、また、それぞれ朋《とも》だちがありましてな、それ引手茶屋の娘でも、大分|工合《ぐあい》が違って来ました。どうして滅多に客の世話なぞするのじゃありませんや。貴女がたの顔まで、ちゃんと心得ていて、先刻《さっき》も手前ちょっと階下《した》へ立違いますと、あちらが、浜谷さんで、こちらが、明座さんでしょう、なんてそう言います。
 廓《くるわ》がはじめてだってお言いなさったのを聞いたと見えて、御見物なさいませんか、お供をして、そこいら、御案内をしましょう、と手前にそう言っていましたっけ。」と団扇《うちわ》を構えて雑貨店主。
「そう、まあ……見て来ましょうか。」
「ねえ。」と顔を見合わせた。
 子爵が頭《かぶり》を振りながら、
「お止《よ》しなさい、お揃いじゃ、女郎《じょろ》が口惜《くや》しがるでしょう、罪だ。」

       六

「なぜですか。」
「新橋、柳橋と見えるでしょう。」
「あら、可厭《いや》だ。」
「四つ、」
 と今度は、魯智深が、透かさず指を立てて、ずいと揚げた。
 すべてがこの調子で、間へ二ツ三ツずつ各自《めいめい》の怪談が挟まる中へ、木皿に割箸《わりばし》をざっくり揃えて、夜通しのその用意が、こうした連中に幕の内でもあるまい、と階下《した》で気を着けたか茶飯の結びに、はんぺんと菜のひたし。……ある大籬《おおまがき》の寮が根岸にある、その畠に造ったのを掘たてだというはしりの新芋。これだけはお才が自慢で、すじ、蒟蒻《こんにゃく》などと煮込みのおでんを丼《どんぶり》へ。目立たないように一銚子《ひとちょうし》附いて出ると、見ただけでも一口|呑《の》めそう……梅次の幕を正面へ、仲の町が夜の舞台で、楽屋の中入《なかいり》といった様子で、下戸《げこ》までもつい一口|飲《や》る。
 八畳一杯|赫《かッ》と陽気で、ちょうどその時分に、中びけの鉄棒《かなぼう》が、近くから遠くへ、次第に幽《かす》かになって廻ったが、その音の身に染みたは、浦里時代の事であろう。誰の胸へも響かぬ。……もっとも話好きな人ばかりが集ったから、その方へ気が入って、酔ったものは一人も無い。が、どうして勢《いきおい》がこんなであるから、立続けに死霊《しりょう》、怨霊《おんりょう》、生霊《いきりょう》まで、まざまざと顕《あらわ》れても、凄《すご》い可恐《こわ》いはまだな事――汐時《しおどき》に颯《さっ》と支度を引いて、煙草盆《たばこぼん》の巻莨《まきたばこ》の吸殻が一度|綺麗《きれい》に片附く時、蚊遣香《かやりこう》もばったり消えて、畳の目も初夜過ぎの陰気に白く光るのさえ、――寂しいとも思われぬ。
(あら可厭だ)……のそれでは無い。百万遍の数取りのように、一同ぐるりと輪になって、じりじりと膝を寄せると、千倉ヶ沖の海坊主、花和尚の大きな影が幕をはびこるのを張合いにして、がんばり入道、ずばい坊、鬼火、怪火《あやしび》、陰火の数々。月夜の白張《しらはり》、宙釣りの丸行燈《まるあんどう》、九本の蝋燭《ろうそく》、四ツ目の提灯《ちょうちん》、蛇塚を走る稲妻、一軒家の棟を転がる人魂《ひとだま》、狼の口の弓張月、古戦場の火矢の幻。
 怨念《おんねん》は大鰻《おおうなぎ》、古鯰《ふるなまず》、太岩魚《ふといわな》、化ける鳥は鷺《さぎ》、山鳥。声は梟《ふくろ》、山伏の吹く貝、磔場《はりつけば》の夜半《よわ》の竹法螺《たけぼら》、焼跡の呻唸声《うめきごえ》。
 蛇ヶ窪の非常汽笛、箒川《ほうきがわ》の悲鳴などは、一座にまさしく聞いた人があって、その響《ひびき》も口から伝わる。……按摩《あんま》の白眼《しろめ》、癩坊《かったい》の鼻、婆々《ばばあ》の逆眉毛《さかまつげ》。気味の悪いのは、三本指、一本脚。
 厠《かわや》を覗《のぞ》く尼も出れば、藪《やぶ》に蹲《しゃが》む癖の下女も出た。米屋の縄暖簾《なわのれん》を擦れ擦れに消える蒼《あお》い女房、矢絣《やがすり》の膝ばかりで掻巻《かいまき》の上から圧《お》す、顔の見えない番町のお嬢さん。干すと窄《すぼ》まる木場辺の渋蛇の目、死んだ頭《かしら》の火事見舞は
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