吉原新話
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)階子段《はしごだん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お茶|聞《きこ》しめせ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》く
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       一

 表二階の次の六畳、階子段《はしごだん》の上《あが》り口、余り高くない天井で、電燈《でんき》を捻《ひね》ってフッと消すと……居合わす十二三人が、皆影法師。
 仲《なか》の町《ちょう》も水道尻《すいどうじり》に近い、蔦屋《つたや》という引手茶屋で。間も無く大引《おおび》けの鉄棒《かなぼう》が廻ろうという時分であった。
 閏《うるう》のあった年で、旧暦の月が後《おく》れたせいか、陽気が不順か、梅雨の上りが長引いて、七月の末だというのに、畳も壁もじめじめする。
 もっともこの日、雲は拭《ぬぐ》って、むらむらと切れたが、しかしほんとうに霽《あが》ったのでは無いらしい。どうやら底にまだ雨気《あまき》がありそうで、悪く蒸す……生干《なまび》の足袋に火熨斗《ひのし》を当てて穿《は》くようで、不気味に暑い中に冷《ひや》りとする。
 気候はとにかく、八畳の表座敷へ、人数が十人の上であるから、縁の障子は通し四枚とも宵の内から明放したが、夜桜、仁和加《にわか》の時とは違う、分けて近頃のさびれ方。仲の町でもこの大一座は目に立つ処へ、浅間《あさま》、端近《はしぢか》、戸外《おもて》へ人立ちは、嬉しがらないのを知って、家《うち》の姉御《あねご》が気を着けて、簾《すだれ》という処を、幕にした。
 廂《ひさし》へ張って、浅葱《あさぎ》に紺の熨斗《のし》進上、朱鷺色《ときいろ》鹿《か》の子のふくろ字で、うめという名が一絞《ひとしぼり》。紅《くれない》の括紐《くくりひも》、襷《たすき》か何ぞ、間に合わせに、ト風入れに掲げたのが、横に流れて、地《じ》が縮緬《ちりめん》の媚《なまめ》かしく、朧《おぼろ》に颯《さっ》と紅梅の友染を捌《さば》いたような。
 この名は数年前、まだ少《わか》くって見番の札を引いたが、家《うち》の抱妓《かかえ》で人に知られた、梅次というのに、何か催《もよおし》のあった節、贔屓《ひいき》の贈った後幕《うしろまく》が、染返しの掻巻《かいまき》にもならないで、長持の底に残ったのを、間に合わせに用いたのである。
 端唄《はうた》の題に出されたのも、十年近く以前であるから。見たばかりで、野路《のじ》の樹とも垣根の枝とも、誰も気の着いたものはなかったが、初め座の定まった処へ、お才という内の姉御が、お茶|聞《きこ》しめせ、と持って出て、梅干も候ぞ。
「いかがですか、甘露梅《かんろばい》。」
 と、今めかしく註を入れたは、年紀《とし》の少《わか》い、学生も交《まじ》ったためで。
「お珍らしくもありませんが、もう古いんですよ、私のように。」
 と笑いながら、
「民さん、」
 と、当夜の幹事の附添いで居た、佐川|民弥《たみや》という、ある雑誌の記者を、ちょいと見て、
「あの妓《こ》なんか、手伝ったのがまだそのままなんです。召あがれ。」と済まして言う。
 様子を知った二三人が、ふとこれで気が着いた。そして、言合わせたように民弥を見た。
 もっとも、そうした年紀《とし》ではなし、今頃はもう左衛門で、女房の実の名も忘れているほどであるから、民弥は何の気も無さそうに、
「いや、御馳走《ごちそう》。」
 時に敷居の外の、その長《なが》六畳の、成りたけ暗そうな壁の処へ、紅入友染《べにいりゆうぜん》の薄いお太鼓を押着《おッつ》けて、小さくなったが、顔の明《あかる》い、眉の判然《はっきり》した、ふっくり結綿《ゆいわた》に緋《ひ》の角絞《つのしぼ》りで、柄も中形も大きいが、お三輪といって今年が七《しち》、年よりはまだ仇気《あどけ》ない、このお才の娘分。吉野町《よしのちょう》辺の裁縫《おしごと》の師匠へ行《ゆ》くのが、今日は特別、平時《いつも》と違って、途中の金貸の軒に居る、馴染《なじみ》の鸚鵡《おうむ》の前へも立たず……黙って奥山の活動写真へも外《そ》れないで、早めに帰って来て、紫の包も解かずに、……
「道理で雨が霽《あが》ったよ。」
 嬉々《いそいそ》客設けの手伝いした、その――

       二

 お三輪がちょうど、そうやって晴がましそうに茶を注《つ》いでいた処。――甘露梅の今のを聞くと、はッとしたらしく、顔を据えたが、拗《す》ねたという身で土瓶をトン。
「才《さあ》ちゃん。」
 と背後《うしろ》からお才を呼んで、前垂《まえだれ》の端はきりりとしながら、褄《つま》の媚《なま》
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