蚊帳《かや》の前を伝わった形が、昼間の闇《くら》がり坂のに肖《に》ていて堪《たま》らない処だもの、……烏は啼《な》く……とすぐにあの、寮の門《かど》で騒いだろう。
 気にしたら、どうして、突然《いきなり》ポンプでも打撒《ぶちま》けたいくらいな処だ。
(いつから?……)
(つい今しがたから。)
(全体|前《ぜん》にから、あの物干の窓が気になってしようがなかったんですよ。……時々、電車のですかね、電《いなびかり》ですか、薄い蒼《あお》いのが、真暗《まっくら》な空へ、ぼっと映《さ》しますとね、黄色くなって、大きな森が出て、そして、五重の塔の突尖《とっさき》が見えるんですよ……上野でしょうか、天竺《てんじく》でしょうか、何にしても余程遠くで、方角が分りませんほど、私たちが見て凄《すご》かったんです。
 その窓に居るんですもの。)
(もっとお言いなさいよ。)
(何です。)
(可厭《いや》だ、私は、)
(もっととは?)
(貴女《あなた》おっしゃいよ、)
 と譲合った。トお種さんが、障《となり》のお三輪にも秘《かく》したそうに、
(頭にね、何ですか、手拭《てぬぐい》のようなものを、扁《ひらっ》たく畳んで載せているものなんです。貴下《あなた》がお話しの通りなの、……佐川さん。)
 私は口が利けなかった。――無暗《むやみ》とね、火入《ひいれ》へ巻莨《まきたばこ》をこすり着けた。
 お三輪の影が、火鉢を越して、震えながら、結綿《ゆいわた》が円髷《まげ》に附着《くッつ》いて、耳の傍《はた》で、
(お組さん、どこのか、お婆さんは、内へ入って来なくッて?)
(お婆さん……)
 とぼやけた声。
(大きな声をおしでないよ。)
 と焦《じれ》ったそうにたしなめると、大きく合点《がってん》々々しながら、
(来ましたよ。)
 ときょとんとして、仰向いて、鉄瓶を撫《な》でて澄まして言うんだ。」
「来たの、」
 と梅次が蘇生《よみがえ》った顔になる。
「三人が入乱れて、その方へ膝を向けた。
 御注進の意気込みで、お三輪も、はらりとこっちへ立って、とんと坐って、せいせい言って、
(来たんですって。ちょいと、どこの人。)
 と、でも、やっぱり、内証で言った。
 胸から半分、障子の外へ、お組が、皆《みんな》が、油へ水をさすような澄ました細面《ほそおもて》の顔を出して、
(ええ、一人お見えになりましてすよ。)
(いつさ?)
(今しがた、可厭《いや》な鴉《からす》が泣きましたろう……)
 いや、もうそれには及ばぬものはまた意地悪く聞える、と見える。
(照吉さんの様子を見に、お才はんが駆出して行《ゆ》きなすった、門《かど》を開放《あけはな》したまんまでさ。)
 皆《みんな》が振向いて門を見たんだ。」――

       二十

「その癖|門《かど》の戸は閉《しま》っている。土間が狭いから、下駄が一杯、杖《ステッキ》、洋傘《こうもり》も一束。大勢|余《あんま》り隙《ひま》だから、歩行出《あるきだ》したように、もぞりもぞりと籐表《とうおもて》の目や鼻緒なんぞ、むくむく動く。
 この人数が、二階に立籠《たてこも》る、と思うのに、そのまた静《しずか》さといったら無い。
 お組がその儀は心得た、という顔で、
(後で閉めたんでございますがね、三輪《みい》ちゃん、お才はんが粗々《そそ》かしく、はあ、)
 と私達を見て莞爾《にっこり》しながら、
(駆出して行《ゆ》きなすった、直き後でございますよ。入違いぐらいに、お年寄が一人、その隅《すみッ》こから、扁平《ひらべっ》たいような顔を出して覗《のぞ》いたんでございますよ。
 何でも、そこで、お上《かみ》さんに聞いて来た、とそう言いなすったようでしたっけ……すたすた二階へお上《あが》りでございました。)
 さ、耳の疎《うと》いというものは。
(どこの人よ、)
 とお三輪が擦寄って、急込《せきこ》んで聞く。
(どこのお婆さんですか。)
(お婆さんなの、ちょいと……)
 私たちが訊《たず》ねたい意《こころ》は、お三輪もよく知っている。闇《くら》がり坂以来、気になるそれが、爺《じじ》とも婆《ばば》とも判別《みわけ》が着かんじゃないか。
(でしょうよ、はあ、……余程《よっぽど》の年紀《とし》ですから。)
(いいえさ、年寄だってね、お爺さんもお婆さんもありますッさ。)
(それがね、それですがね三輪ちゃん。)
 と頭《かぶり》を掉《ふ》って、
(どっちだかよく分りません。背《せい》の低い、色の黄色|蒼《あお》い、突張《つっぱ》った、硝子《ビイドロ》で張ったように照々《てらてら》した、艶《つや》の可《い》い、その癖、随分よぼよぼして……はあ、手拭《てぬぐい》を畳んで、べったり被《かぶ》って。)
 女たちは、お三輪と顔を見合わせた。
(それですが、どうかしましたか。
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