が遅れたから、茶屋の角で直ぐに腕車《くるま》をそう言ってね。
乗ってさ。出る、ともう、そこらで梟《ふくろう》の声がする。寂寥《しん》とした森の下を、墓所に附いて、薄暮合いに蹴込《けこみ》が真赤《まっか》で、晃々《きらきら》輪が高く廻った、と思うと、早や坂だ。――切立《きった》てたような、あの闇がり坂、知ってたっけか。」
「根岸から天王寺へ抜ける、細い狭い、蔽被《おっかぶ》さった処でしょう。――近所でも芋坂の方だと、ちょいちょい通って知ってますけれど、あすこは、そうね、たった一度。可厭《いや》な処だわね、そこでどうかなすったんですか。」
「そうさ、よく路傍《みちばた》の草の中に、揃えて駒下駄《こまげた》が脱いであったり、上の雑樹の枝に蝙蝠傘《こうもり》がぶら下っていたり、鉄道で死ぬものは、大概あの坂から摺込《ずりこ》むってね。手巾《ハンケチ》が一枚落ちていても悚然《ぞっ》とする、と皆《みんな》が言う処だよ。
昼でも暗いのだから、暮合《くれあい》も同《おんな》じさ。別に夜中では無し、私は何にも思わなかったんだが、極《きま》って腕車《くるま》から下りる処さ、坂の上で。あの急勾配だから。
下りるとね、車夫《わかいし》はたった今乗せたばかりの処だろう、空車《からぐるま》の気前を見せて、一《ひと》つ駆《が》けで、顱巻《はちまき》の上へ梶棒《かじぼう》を突上げる勢《いきおい》で、真暗《まっくら》な坂へストンと摺込《すべりこ》んだと思うと、むっくり線路の真中《まんなか》を躍り上って、や、と懸声だ。そこはまだ、仄《ほんの》り明《あかる》い、白っぽい番小屋の、蒼《あお》い灯《ひ》を衝《つッ》と切って、根岸の宵の、蛍のような水々《みずみず》した灯《あかり》の中へ消込《きえこ》んだ。
蝙蝠《こうもり》のように飛ぶんだもの、離れ業と云って可《い》い速さなんだから、一人でしばらく突立《つった》って見ていたがね、考えて見ると、面白くも何とも無いのさ。
足許だけぼんやり見える、黄昏《たそがれ》の木《こ》の下闇《したやみ》を下り懸けた、暗さは暗いが、気は晴々《せいせい》する。
以前と違って、それから行《ゆ》く、……吉原には、恩愛もなし、義理もなし、借もなし、見得外聞があるじゃなし……心配も苦労も無い。叔母さんに貰《もら》った仲の町の江戸絵を、葛籠《つづら》から出して頬杖《ほおづえ》を支《つ》いて見るようなもんだと思って。」
十四
「坂の中途で――左側の、」
と長火鉢の猫板を圧《おさ》えて言う。
「樹の根が崩れた、じとじと湿っぽい、赤土の色が蚯蚓《みみず》でも団《かたま》ったように見えた、そこにね。」
「ええ」
と梅次は眉を顰《ひそ》めた。
「大丈夫、蛇の話じゃ無い。」とこれは元気よく云って、湯呑《ゆのみ》で一口。
「人が居たのさ。ぼんやりと小さく蹲《しゃが》んで、ト目に着くと可厭《いや》な臭気《におい》がする、……地《つち》へ打坐《ぶっすわ》ってでもいるかぐらい、ぐしゃぐしゃと挫《ひしゃ》げたように揉潰《もみつぶ》した形で、暗いから判然《はっきり》せん。
が、別に気にも留めないで、ずっとその傍《わき》を通抜けようとして、ものの三足《みあし》ばかり下りた処だった。
(な、な、)と言う。
雪駄直《せったなお》しだか、唖《おうし》だか、何だか分らない。……聞えたばかり。無論、私を呼んだと思わないから、構わず行《ゆ》こうとすると、
(なあ、)と、今度はちっとぼやけたが、大きな声で、そして、
(袴《はかま》着た殿い、な、)と呼懸ける、確かに私を呼んだんだ。どこの山家《やまが》のものか知らんが、変な声で、妙なものいいさ。「袴着た、」と言うのか、「墓場来た、」と言うのか、どっちにしても「殿」は気障《きざ》だ。
が、確《たしか》に呼留めたに相違無いから、
(俺《おれ》か。)
(それよ、)……と、気になる横柄な返事をして、もやもやと背伸びをして立った……らしい、頭《つむり》を擡《もた》げたのか、腰を起《た》てたのか、上下《うえした》同《おんな》じほどに胴中《どうなか》の見えたのは、いずれ大分の年紀《とし》らしい。
爺《じじい》か、婆《ばばあ》か、ちょっと見には分らなかったが、手拭《てぬぐい》だろう、頭にこう仇白《あだじろ》いやつを畳んで載せた。それが顔に見えて、面《つら》は俯向《うつむ》けにしながら、杖《つえ》を支《つ》いた影は映らぬ。
(殿、な、何処《いずく》へな。)
と、こうなんだ。
私は黙って視《なが》めたっけ。
じっと身動きもしないで、返事を待っているようだからね、
(吉原へ。)
と綺麗に言ったが、さあ、以前なら、きっとそうは言わなかったろう。その空がさっぱりと晴々した心持だから、誰に憚《はばか》る処も無い。おつけ晴れた
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