やつ》が今居るあたりまで、ものの推込《おしこ》んだ様子がある。なぜか、向うの、その三階の蚊帳が、空へずッと高くなったように思う。
 ちょうど、子爵とその婆《ばばあ》との間に挟まる、柱に凭《もた》れた横顔が婦人《おんな》に見える西洋画家は、フイと立って、真暗《まっくら》な座敷の隅へ姿を消した。真個《しん》に寐入っていたのでは無かったらしい。
(残酷というのはね、仮にもしろ、そんな、優しい、可憐《いじらし》い、――弟のために身代りになるというような、若い人の生命《いのち》を「とりあげ」に来たなどという事なんだ。世の中には、随分、娑婆塞《しゃばふさ》げな、死損《しにぞこな》いな、)
 と子爵も間近に、よくその婆々《ばばあ》を認めたろう、……当てるように、そう言って、
(邪魔な生命《いのち》もあるもんだ。そんな奴《やつ》の胸に爪を立てる方がまだしもだな。)
(その様な生命《いのち》はの、殿、殿たちの方で言うげな、……病《やみ》ほうけた牛、痩《や》せさらぼえた馬で、私等《わしら》がにも役にも立たぬ。……あわれな、というはの、膏《あぶら》の乗った肉じゃ、いとしいというはの、薫《かおり》の良《い》い血じゃぞや。な、殿。――此方衆《こなたしゅ》、鳥を殺さしゃるに、親子の恩愛を思わっしゃるか。獣を殺しますに、兄弟の、身代りの見境《みさかい》があるかいの。魚《うお》も虫も同様《おなじ》での。親があるやら、一粒種やら、可愛いの、いとしいの、分隔てをめされますかの。
 弱いものいうたら、しみしんしゃくもさしゃらず……毛を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》る、腹を抜く、背を刮《ひら》く……串刺《くしざし》じゃ、ししびしおじゃ。油で煮る、火炎《ほのお》で焼く、活《い》きながら鱠《なます》にも刻むげなの、やあ、殿。……餓《ひも》じくばまだしもよ、栄耀《えよう》ぐいの味醂蒸《みりんむし》じゃ。
 馴《な》れれば、ものよ、何がそれを、酷《ひど》いとも、いとしいとも、不便《ふびん》なとも思わず。――一ツでも繋《つな》げる生命《いのち》を、二羽も三頭《みッつ》も、飽くまでめさる。また食おうとさしゃる。
 誰もそれを咎《とが》めはせまい。咎めたとて聞えまい、私《わし》も言わぬ、私もそれを酷《むご》いと言わぬぞ。知らぬからじゃ、不便《ふびん》もいとしいも知らねばこそいの。――何と、殿、酷
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