が遅れたから、茶屋の角で直ぐに腕車《くるま》をそう言ってね。
 乗ってさ。出る、ともう、そこらで梟《ふくろう》の声がする。寂寥《しん》とした森の下を、墓所に附いて、薄暮合いに蹴込《けこみ》が真赤《まっか》で、晃々《きらきら》輪が高く廻った、と思うと、早や坂だ。――切立《きった》てたような、あの闇がり坂、知ってたっけか。」
「根岸から天王寺へ抜ける、細い狭い、蔽被《おっかぶ》さった処でしょう。――近所でも芋坂の方だと、ちょいちょい通って知ってますけれど、あすこは、そうね、たった一度。可厭《いや》な処だわね、そこでどうかなすったんですか。」
「そうさ、よく路傍《みちばた》の草の中に、揃えて駒下駄《こまげた》が脱いであったり、上の雑樹の枝に蝙蝠傘《こうもり》がぶら下っていたり、鉄道で死ぬものは、大概あの坂から摺込《ずりこ》むってね。手巾《ハンケチ》が一枚落ちていても悚然《ぞっ》とする、と皆《みんな》が言う処だよ。
 昼でも暗いのだから、暮合《くれあい》も同《おんな》じさ。別に夜中では無し、私は何にも思わなかったんだが、極《きま》って腕車《くるま》から下りる処さ、坂の上で。あの急勾配だから。
 下りるとね、車夫《わかいし》はたった今乗せたばかりの処だろう、空車《からぐるま》の気前を見せて、一《ひと》つ駆《が》けで、顱巻《はちまき》の上へ梶棒《かじぼう》を突上げる勢《いきおい》で、真暗《まっくら》な坂へストンと摺込《すべりこ》んだと思うと、むっくり線路の真中《まんなか》を躍り上って、や、と懸声だ。そこはまだ、仄《ほんの》り明《あかる》い、白っぽい番小屋の、蒼《あお》い灯《ひ》を衝《つッ》と切って、根岸の宵の、蛍のような水々《みずみず》した灯《あかり》の中へ消込《きえこ》んだ。
 蝙蝠《こうもり》のように飛ぶんだもの、離れ業と云って可《い》い速さなんだから、一人でしばらく突立《つった》って見ていたがね、考えて見ると、面白くも何とも無いのさ。
 足許だけぼんやり見える、黄昏《たそがれ》の木《こ》の下闇《したやみ》を下り懸けた、暗さは暗いが、気は晴々《せいせい》する。
 以前と違って、それから行《ゆ》く、……吉原には、恩愛もなし、義理もなし、借もなし、見得外聞があるじゃなし……心配も苦労も無い。叔母さんに貰《もら》った仲の町の江戸絵を、葛籠《つづら》から出して頬杖《ほおづえ》を支《
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