でもよく知れる……寝るまでに必ず雇《やと》はう、と思つて居た、其の事を言ひ出す隙《ひま》も無かつたのである。
「お荷物は此《これ》だけですつてね、然《そ》う?……」
 と革鞄《かばん》を袖《そで》で抱いて帰つて来たのが、打傾《うちかたむ》いて優しく聞く。
「恐縮です、恐縮です。」
 沢は恐入《おそれい》らずには居られなかつた。鳶《とび》の羽《はね》には託《ことづ》けても、此の人の両袖に、――恁《か》く、なよなよと、抱取《だきと》らるべき革鞄ではなかつたから。
「宿で、道案内の事を心配して居ましたよ。其は可《い》いの、貴下《あなた》、頼まないでお置きなさいまし。途中の分らない処《ところ》は僅少《わずか》の間《あいだ》ですから、私がお見立て申すわ。逗留《とうりゅう》してよく知つて居ます。」
 と入替《いれかわ》りに、軒《のき》に立つて、中に居る沢に恁《こ》う言ひながら、其の安からぬ顔を見て莞爾《にっこり》した。
「大丈夫よ。何が出たつて、私が無事で居るんですもの。さあ、お入んなさいまし。あゝ、寒いわね。」
 と肩を細《ほっそ》り……廂《ひさし》はづれに空を仰いで、山の端《は》の月と顔《かん
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