框《かまち》を納涼台《すずみだい》のやうにして、端近《はしぢか》に、小造《こづく》りで二十二三の婦《おんな》が、しつとりと夜露《よつゆ》に重さうな縞縮緬《しまちりめん》の褄《つま》を投げつゝ、軒下《のきした》を這《は》ふ霧を軽く踏んで、すらりと、くの字に腰を掛け、戸外《おもて》を視《なが》めて居たのを、沢は一目見て悚然《ぞっ》とした。月の明《あかる》い美人であつた。
 が、櫛巻《くしまき》の髪に柔かな艶《つや》を見せて、背《せな》に、ごつ/\した矢張《やっぱ》り鬱金《うこん》の裏のついた、古い胴服《ちゃんちゃんこ》を着て、身に染《し》む夜寒《よさむ》を凌《しの》いで居たが、其の美人の身に着《つ》いたれば、宝蔵千年《ほうぞうせんねん》の鎧《よろい》を取つて投懸《なげか》けた風情《ふぜい》がある。
 声も乱れて、
「お代《だい》は?」
「私は内のものではないの。でも可《よ》うござんす、めしあがれ。」
 と爽《さわやか》な、清《すず》しいものいひ。

        四

 沢は、駕籠《かご》に乗つて蔵屋に宿つた病人らしい其と言ひ、鍵屋に此の思ひがけない都人《みやこびと》を見て、つい聞知《ききし》らずに居た、此の山には温泉《いでゆ》などあつて、それで逗留をして居るのであらう。
 と先《ま》づ思つた。
 処《ところ》が、聞いて見ると、然《そ》うで無い。唯《ただ》此処《ここ》の浮世離《うきよばな》れがして寂《さみ》しいのが気に入つたので、何処《どこ》にも行かないで居るのだと云ふ。
 寂《さみ》しいにも、第一|此《こ》の家には、旅人の来て宿るものは一|人《にん》も無い、と茶店《ちゃみせ》で聞いた――泊《とまり》がさて無いばかりか、※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して見ても、がらんとした古家《ふるいえ》の中に、其の婦《おんな》ばかり。一寸《ちょっと》鼠《ねずみ》も騒がねば、家族らしいものの影も見えぬ。
 男たちは、疾《とう》から人里《ひとざと》へ稼《かせ》ぎに下《お》りて少時《しばらく》帰らぬ。内には女房と小娘が残つて居るが、皆向うの賑《にぎや》かな蔵屋の方へ手伝ひに行く。……商売敵《しょうばいがたき》も何も無い。只管《ひたすら》人懐《ひとなつ》かしさに、進んで、喜んで朝から出掛ける……一頃《ひところ》皆無《かいむ》だつた旅客《りょかく》が急に立籠《たてこ》んだ時分は固《もと》より、今夜なども木《こ》の葉《は》の落溜《おちたま》つたやうに方々から吹寄《ふきよ》せる客が十人の上もあらう。……其だと蔵屋の人数《にんず》ばかりでは手が廻りかねる。時とすると、膳《ぜん》、家具、蒲団《ふとん》などまで、此方《こっち》から持運《もちはこ》ぶのだ、と云ふのが、頃刻《しばらく》して美人《たおやめ》の話で分つた。
「家も此方《こっち》が立派ですね。」
「えゝ、暴風雨《あらし》の時に、蔵屋は散々に壊れたんですつて……此方《こちら》は裏に峰があつたお庇《かげ》で、旧《もと》のまゝだつて言ひますから……」
「其だに何故《なぜ》客が来ないんでせう。」
「貴下《あなた》、何もお聞きなさいませんか。」
「はあ。」
 沢は実は其段《そのだん》心得《こころえ》て居た、為に口籠《くちごも》つた。
「お化《ばけ》が出ますとさ。」
 痩《やせ》ぎすな顔に、清《きよ》い目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、沢を見て微笑《ほほえ》んで云つた。
「嘘でせう。」
「まあ、泊つて御覧なさいませんか。」
 はじめは串戯《じょうだん》らしかつたが、後《のち》は真個《まったく》誘《いざな》つた。
「是非《ぜひ》、然《そ》うなさいまし、お化が出ると云つて……而《そ》して婦《おんな》が一人で居るのを見て、お泊んなさらないでは卑怯《ひきょう》だわ。人身御供《ひとみごくう》に出会《でっくわ》せば、屹《きっ》と男が助けると極《きま》つたものなの……又、助けられる事に成つて居るんですもの。ね、然《そ》うなさい。」
 で、退引《のっぴ》きあらせず。
「蔵屋の方は構ひません。一寸《ちょいと》、私が行つて断つて来て上げます。」
 と気軽に、すつと出る、留南奇《とめき》の薫《かおり》が颯《さっ》と散つた、霧に月《つき》射《さ》す裳《もすそ》の影《かげ》は、絵で見るやうな友染《ゆうぜん》である。
 沢は笊《ざる》に並んだ其の柿を鵜呑《うのみ》にしたやうに、ポンと成つた――実は……旅店《りょてん》の注意で、暴風雨《あらし》で変果《かわりは》てた此の前《さき》の山路《やまみち》を、朝がけの旅は、不案内のものに危険《けんのん》であるから、一同のするやうに、路案内《みちあんない》を雇《やと》へ、と云つた。……成程《なるほど》、途中の覚束《おぼつか》なさは、今見た橋の霧の中に穴の深いの
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