めん》が、斧《おの》を取つて襲ふかともの凄《すご》い。……心細さは鼠《ねずみ》も鳴かぬ。
 其処《そこ》へ、茶を焙《ほう》じる、夜《よ》が明けたやうな薫《かおり》で、沢は蘇生《よみがえ》つた気がしたのである。
 けれども、寝られぬ苦しさは、ものの可恐《おそろ》しさにも増して堪へられない。余りの人の恋しさに、起きて、身繕《みづくろ》ひして、行燈《あんどう》を提げて、便《たより》のないほど堂々広《だだっぴろ》い廊下を伝つた。
 持つて下りた行燈《あんどう》は階子段《はしごだん》の下に差置《さしお》いた。下の縁《えん》の、ずつと奥の一室《ひとま》から、ほのかに灯《ひ》の影がさしたのである。
 邪《よこしま》な心があつて、ために憚《はばか》られたのではないが、一足《ひとあし》づゝ、みし/\ぎち/\と響く……嵐《あらし》吹《ふき》添ふ縁《えん》の音は、恁《かか》る山家《やまが》に、おのれ魅《み》と成つて、歯を剥《む》いて、人を威《おど》すが如く思はれたので、忍んで密《そっ》と抜足《ぬきあし》で渡つた。
 傍《そば》へ寄るまでもなく、大《おおき》な其の障子の破目《やれめ》から、立ちながら裡《うち》の光景《ようす》は、衣桁《いこう》に掛けた羽衣《はごろも》の手に取るばかりによく見える。
 ト荒果《あれは》てたが、書院づくりの、床《とこ》の傍《わき》に、あり/\と彩色《さいしき》の残つた絵の袋戸《ふくろど》の入つた棚の上に、呀《やあ》! 壁を突通《つきとお》して紺青《こんじょう》の浪《なみ》あつて月の輝く如き、表紙の揃《そろ》つた、背皮に黄金《おうごん》の文字を刷《お》した洋綴《ようとじ》の書籍《ほん》が、ぎしりと並んで、燦《さん》として蒼《あお》き光を放つ。
 美人《たおやめ》は其の横に、机を控へて、行燈《あんどう》を傍《かたわら》に、背《せな》を細く、裳《もすそ》をすらりと、なよやかに薄い絹の掻巻《かいまき》を肩から羽織《はお》つて、両袖《りょうそで》を下へ忘れた、双《そう》の手を包んだ友染《ゆうぜん》で、清らかな頸《うなじ》から頬杖《ほおづえ》支《つ》いて、繰拡《くりひろ》げたペイジを凝《じっ》と読入《よみい》つたのが、態度《ようす》で経文《きょうもん》を誦《じゅ》するとは思へぬけれども、神々《こうごう》しく、媚《なま》めかしく、然《しか》も婀娜《あだ》めいて見えたのである。
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