でもよく知れる……寝るまでに必ず雇《やと》はう、と思つて居た、其の事を言ひ出す隙《ひま》も無かつたのである。
「お荷物は此《これ》だけですつてね、然《そ》う?……」
 と革鞄《かばん》を袖《そで》で抱いて帰つて来たのが、打傾《うちかたむ》いて優しく聞く。
「恐縮です、恐縮です。」
 沢は恐入《おそれい》らずには居られなかつた。鳶《とび》の羽《はね》には託《ことづ》けても、此の人の両袖に、――恁《か》く、なよなよと、抱取《だきと》らるべき革鞄ではなかつたから。
「宿で、道案内の事を心配して居ましたよ。其は可《い》いの、貴下《あなた》、頼まないでお置きなさいまし。途中の分らない処《ところ》は僅少《わずか》の間《あいだ》ですから、私がお見立て申すわ。逗留《とうりゅう》してよく知つて居ます。」
 と入替《いれかわ》りに、軒《のき》に立つて、中に居る沢に恁《こ》う言ひながら、其の安からぬ顔を見て莞爾《にっこり》した。
「大丈夫よ。何が出たつて、私が無事で居るんですもの。さあ、お入んなさいまし。あゝ、寒いわね。」
 と肩を細《ほっそ》り……廂《ひさし》はづれに空を仰いで、山の端《は》の月と顔《かんばせ》を合せた。
「最《も》う霜《しも》が下りるのよ、炉の処《ところ》で焚火《たきび》をしませうね。」

        五

 美女《たおやめ》は炉を囲んで、少く語つて多く聞いた。而《そ》して、沢が其の故郷《ふるさと》の話をするのを、もの珍らしく喜んだのである。
 沢は、隔てなく身の上さへ話したが、しかし、十有余年《じゅうゆうよねん》崇拝する、都の文学者|某君《なにがしぎみ》の許《もと》へ、宿望《しゅくぼう》の入門が叶《かな》つて、其のために急いで上京する次第は、何故《なぜ》か、天機《てんき》を洩《も》らすと云ふやうにも思はれるし、又余り縁遠《えんどお》い、そんな事は分るまいと思つて言はなかつた。
 蔵屋の門《かど》の戸が閉《しま》つて、山が月ばかり、真蒼《まっさお》に成つた時、此の鍵屋の母娘《おやこ》が帰つた。例の小女《こおんな》は其の娘で。
 二人が帰つてから、寝床は二階の十畳の広間へ、母親が設けてくれて、其処《そこ》へ寝た――丁《ちょう》ど真夜中過ぎである。……
 枕を削る山颪《やまおろし》は、激しく板戸《いたど》を挫《ひし》ぐばかり、髪を蓬《おどろ》に、藍色《あいいろ》の面《
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