錦染滝白糸
――其一幕――
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)撫子《なでしこ》。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一生涯|他《ほか》へは
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)二三度|※[#「低」の「にんべん」に代えて「彳」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》して
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場所。
信州松本、村越の家
人物。
村越欣弥(新任検事)
滝の白糸(水芸の太夫)
撫子(南京出刃打の娘)
高原七左衛門(旧藩士)
おその、おりく(ともに近所の娘)
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撫子《なでしこ》。円髷《まるまげ》、前垂《まえだれ》がけ、床の間の花籠《はなかご》に、黄の小菊と白菊の大輪なるを莟《つぼみ》まじり投入れにしたるを視《なが》め、手に三本《みもと》ばかり常夏《とこなつ》の花を持つ。
傍《かたわら》におりく。車屋の娘。
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撫子 今日は――お客様がいらっしゃるッて事だから、籠も貸して頂けば、お庭の花まで御無心して、ほんとうに済みませんのね。
りく 内の背戸にありますと、ただの草ッ葉なんですけれど、奥さんがそうしてお活《い》けなさいますと、お祭礼《まつり》の時の余所行《よそゆき》のお曠衣《はれ》のように綺麗《きれい》ですわ。
撫子 この細《ほっそ》りした、(一輪を指《ゆびさ》す)絹糸のような白いのは、これは、何と云う名の菊なんですえ。
りく 何ですか、あの……糸咲《いとざき》々々ってお父《とっ》さんがそう云いますよ。
撫子 ああ、糸咲……の白菊……そうですか。
りく そして、あのその撫子はお活けなさいませんの。
撫子 おお、この花は撫子ですか。(手なる常夏を見る。)
りく ええ、返り咲の花なんですよ。枯れた薄《すすき》の根に咲いて、珍しいから、と内でそう申しましてね。
撫子 その返り咲が嬉《うれし》いから、どうせお流儀があるんじゃなし、綺麗でさえあれば可《い》い、去嫌《さりぎら》い構わずに、根〆《ねじめ》にしましょうと思ったけれど、白菊が糸咲で、私、常夏と覚えた花が、撫子と云うのでしたら、あの……ちょっと、台所の隅へでも、瓶に挿しましょう。
りく そう、見つけて来ましょう。(起《た》つ。)
撫子 (熟《じっ》と籠なると手の撫子とを見較《みくら》ぶ。)
りく これじゃいかが。
撫子 ああ結構よ。(瓶にさす時水なし)あら水がない。
りく 汲《く》んで来ましょう。
撫子 いいえ、撫子なんか、水がなくって沢山なの。
りく まあ、どうして?
撫子 それはね、南京流《なんきんりゅう》の秘伝なの。ほほほ。(寂しく笑う。)
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おその、蓮葉《はすは》に裏口より入る。駄菓子屋の娘。
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その 奥様。
撫子 おや、おそのさん。
その あの、奥様。お客様の御馳走《ごちそう》だって、先刻《さっき》、お台所《だいどこ》で、魚のお料理をなさるのに、小刀《ナイフ》でこしらえていらしった事を、私、帰ってお饒舌《しゃべり》をしましたら、お母《っか》さんが、まあ、何というお嬢様なんだろう。どんな御身分の方が、お慰みに、お飯事《ままごと》をなさるんでも、それでは御不自由、これを持って行って差上げな、とそう言いましてね。(言いつつ、古手拭《ふるてぬぐい》を解《ほど》く)いま研いだのを持って来ました。よく切れます……お使いなさいまし、お間に合せに。……(無遠慮に庖丁を目前《めのさき》に突出す。)
撫子 (ゾッと肩をすくめ、瞳《ひとみ》を見据え、顔色かわる)おそのさん、その庖丁は借《かり》ません。
その ええ。
撫子 出刃は私に祟《たた》るんです。早く、しまって下さいな。
その 何でございますか、田舎もので、飛んだことをしましたわ。御免なさい、おりくさん、お詫《わび》をして頂戴な。
りく お気に障りましたら、御勘弁下さいまし。
撫子 飛んでもない。お辞儀なんかしちゃあ不可《いけ》ません。おそのさん、おりくさん。
りく いいえ、奥様、私たちを、そんな、様づけになんかなさらないで、奉公人同様に、りくや。
その その、と呼棄てに、お目を掛けて下さいまし。
撫子 勿体《もったい》ないわね、あなたがたはれっきとした町内の娘さんじゃありませんか。
りく いいえ、私は車屋ですもの。
その 親仁《おやじ》は日傭取《ひようとり》の、駄菓子屋ですもの。
撫子 駄菓子屋さん立派、車屋さん結構よ。何の卑下する処があります。私はそれが可羨《うらやま》しい。狗《いぬ》の子だか、猫の子だか、掃溜《はきだめ》ぐらいの小屋はあっても、縁の下なら宿なし同然。このお邸《やしき》へ来るまでは、私は、あれ、あの、菊の咲く、垣根さえ憚《はばか》って、この撫子と一所に倒れて、草の露に寝たんですよ。
りく あら、あんな事を。
その まあ……奥様。
撫子 その奥様と言われるのを、済まない済まない、勿体ない、と知っていながら、つい、浅はかに、一度が二度、三度めには幽《かすか》に返事をしていました。その罰が当ったんです。いまの庖丁が可恐《おそろし》い。私はね、南京出刃打《なんきんでばうち》の小屋者なんです。
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娘二人顔を見合わす。
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俎《まないた》の上で切刻《きりきざ》まれ、磔《はりつけ》にもかかる処を、神様のような旦那様に救われました。その神様を、雪が積って、あの駒《こま》ヶ岳へあらわれる、清い気高い、白い駒、空におがんでいなければならないんだのに。女にうまれた一生の思出に、空耳でも、僻耳《ひがみみ》でも、奥さん、と言われたさに、いい気になって返事をして、確《たしか》に罰が当ったんです……ですが、この円髷《まるまげ》は言訳をするんじゃありませんけれど、そんな気なのではありません。一生涯|他《ほか》へはお嫁入りをしない覚悟、私は尼になった気です。……(涙ぐみつつ)もう、今からは怪我《けが》にだって、奥さんなんぞとおっしゃるなよ。おりくさん、おそのさん、更《あらた》めてお詫をします。
りく それでも、やっぱり奥さんですわ。ねえ、おそのさん。
その ええ、そうよ。
撫子 いいえ、いま思知ったんです、まったく罰が当りますから、私を可哀想《かわいそう》だとお思いなすったら、このお邸のおさんどん、いくや、いくや、とおっしゃってね、豆腐屋、薪屋《まきや》の方角をお教えなすって下さいまし。何にも知らない不束《ふつつか》なものですから、余所《よそ》の女中に虐《いじ》められたり、毛色の変った見世物《みせもの》だと、邸町《やしきまち》の犬に吠《ほ》えられましたら、せめて、貴女方《あなたがた》が御贔屓《ごひいき》に、私を庇《かば》って下さいな、後生ですわ、ええ。
その 私どうしたら可《い》いでしょう――こんなもの、掃溜へ打棄《うっちゃ》って来るわ。(立つ。)
撫子 ああ、靴の音が。
りく 旦那様のお帰りですね。
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村越欣弥《むらこしきんや》。高原七左衛門《たかはらしちざえもん》。登場。道を譲る。
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村越 ま、まあ、御老人。
七左 いや、まず……先生。
村越 先生は弱りました。(忸怩《じくじ》たり)では書生流です、御案内。
七左 その気象! その気象!
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撫子。出迎えんとして、ちょっと髷に手を遣《や》り、台所へ下らんとするおりくの手を無理に取って、並んで出迎う。
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撫子 お帰り遊ばせ。
村越 お客様に途中で逢《あ》ったよ。
撫子 (一度あげたる顔を、黙ってまた俯向《うつむ》き、手をつく。)
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七左。よう、という顔色《かおつき》にて、兀頭《はげあたま》の古帽を取って高く挙げ、皺《しわ》だらけにて、ボタン二つ離れたる洋服の胸を反らす。太きニッケル製の時計の紐《ひも》がだらりとあり。
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村越 さあ、どうぞ。
七左 御免、真平《まっぴら》御免。
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腰を屈《かが》め、摺足《すりあし》にて、撫子の前を通り、すすむる蒲団《ふとん》の座に、がっきと着く。
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撫子 ようおいで遊ばしました。
七左 ははっ、奥さん。(と倒《さかさ》になる。)
撫子 (手を支《つか》えたるまま、つつと退《すさ》る。)
村越 父、母の御懇意。伯父さん同然な方だ。――高原さん……それは余所《よそ》の娘です。
七左 (高らかに笑う)はッはッはッ、いずれ、そりゃ、そりゃ、いずれ、はッはッはッはッ。一度は余所の娘御には相違ないてな。いや、婆《ばばあ》どのも、かげながら伝え聞いて申しておる。村越の御子息が、目《ま》のあたり立身出世は格別じゃ、が、就中《なかんずく》、豪《えら》いのはこの働きじゃ。万一この手廻しがのうてみさっしゃい、団子|噛《かじ》るにも、蕎麦《そば》を食うにも、以来、欣弥さんの嫁御の事で胸が詰《つま》る。しかる処へ、奥方連《おくがたづれ》のお乗込みは、これは学問修業より、槍先《やりさき》の功名、と称《とな》えて可《よ》い、とこう云うてな。
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この間に、おりく茶を運ぶ、がぶりとのむ。
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はッはッはッはッ。
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撫子弱っている。
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村越 (額に手を当て)いや、召使い……なんですよ。
七左 いずれそりゃ、そりゃいずれ、はッはッはッ、若いものの言う事は極《きま》っておる。――奥方、気にせまい。いずれそりゃ、田鼠化為鶉《でんそかしてうずらとなる》、雀入海中為蛤《すずめかいちゅうにいってはまぐりとなる》、とあってな、召つかいから奥方になる。――老人田舎もののしょうが[#「しょうが」に傍点]には、山の芋を穿《ほ》って鰻《うなぎ》とする法を飲込んでいるて。拙者《せっしゃ》、足軽ではござれども、(真面目《まじめ》に)松本の藩士、士族でえす。刀に掛けても、追《おっ》つけ表向《おもてむき》の奥方にいたす、はッはッはッ、――これ遁《に》げまい。
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撫子、欣弥の目くばせに、一室《ひとま》にかくる。
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欣弥さんはお奉行様じゃ、むむ、奥方にあらず、御台所《みだいどころ》と申そうかな。
撫子 お支度が。(――いい由《よし》知らせる。)
村越 さあ、小父《おじ》さん、とにかくあちらで。何からお話を申して可《よ》いか……なにしろまあ、那室《あちら》へ。
七左 いずれ、そりゃ、はッはッはッ、御馳走には預るのじゃ、はッはッはッ。遠慮は不沙汰《ぶさた》、いや、しからば、よいとまかせのやっとこな。(と云って立つ。村越に続いて一室《ひとま》に入《い》らんとして、床の間の菊を見る)や、や、これは潔く爽《さわやか》じゃ。御主人の気象によく似ておる。
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欣弥、莞爾《にっこり》して撫子の顔を見て、その心づかいを喜び謝す。撫子嬉しそ
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