うに胸を抱く。
二人続いて入る、この一室|襖《ふすま》、障子にて見物の席より見えず。
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七左 (襖の中《うち》にて)ここはまた掛花活《かけばないけ》に山茶花《さざんか》とある……紅《あか》いが特に奥方じゃな、はッはッはッ。
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撫子、勝手に立つ。入《いれ》かわりて、膳部《ぜんぶ》二調、おりく、おその二人にて運び、やがて引返す。
撫子、銚子《ちょうし》、杯洗《はいせん》を盆にして出で、床なる白菊を偶《ふ》と見て、空瓶《あきびん》の常夏に、膝をつき、ときの間にしぼみしを悲《かなし》む状《さま》にて、ソと息を掛く。また杯洗を見て、花を挿直し、猪口《ちょく》にて水を注《つ》ぎ入れつつ、ほろりとする。
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村越 (手を拍《たた》く。)
撫子 はい、はい。(と軽く立ち、襖に入る。)
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七左、程もあらせず、銚子を引攫《ひッつか》んで載せたるままに、一人前《ひとりまえ》の膳を両手に捧げて、ぬい、と出づ。
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村越 (呆《あき》れたる状《さま》して続く)小父さん、小父さん、どうなすった……どうなさるんです。おいくさん、お前|粗相《そそう》をしやしないかい。
七左 (呵々《からから》と笑う)はッはッはッ。慌てまい。うろたえまい。騒ぐまい。信濃国東筑摩郡《しなののくにひがしちくまこおり》松本中が粗相をしても、腹を立てる私《わし》ではない。証拠を見せよう。それこれじゃ、(萌黄《もえぎ》古びて茶となりたるに大紋の着いたる大風呂敷を拡げて、膳を包む)――お銚子は提げて持って行《ゆ》くわさ。
村越 小父さん!
七左 慌てまい、はッはッはッ。奥方もさて狼狽《うろた》えまい。騒ぐまい。膳は追《おっ》て返す。狂人《きちがい》じみたと思わりょうが、決してそうでない。実は、婆々《ばば》どのの言うことに――やや親仁《おやじ》どのや、ぬしは信濃国東筑摩郡松本中での長尻《ながちり》ぞい……というて奥方、農産会に出た糸瓜《へちま》ではござらぬぞ。三杯飲めば一時《いっとき》じゃ。今の時間《とき》で二時間かかる。少《わか》い人たち二人の処、向後はともあれ、今日ばかりは一杯でなしに、一口|呑《の》んだら直ぐに帰って、意気な親仁になれと云う。の、婆々どののたっての頼みじゃ。田鼠化為鶉、親仁、すなわち意気となる。はッはッはッ。いや。当家《こちら》のお母堂様《ふくろさま》も御存じじゃった、親仁こういう事が大好きじゃ、平《ひら》に一番《ひとつ》遣《や》らせてくれ。
村越 (ともに笑う)かえってお心任せが可いでしょう。しかし、ちょうど使《つかい》のものもあります、お恥かしい御膳ですが、あとから持たせて差上げます。
撫子 あの、赤の御飯を添えまして。
七左 過分でござる。お言葉に従いますわ。時に久しぶりで、ちょっと、おふくろ様に御挨拶《ごあいさつ》を申したい。
村越 仏壇がまだ調いません、位牌《いはい》だけを。
七左 はあ、香花《こうげ》、お茶湯《ちゃとう》、御殊勝でえす。達者でござったらばなあ。
村越 (涙ぐむ。)
七左 おふくろどの、主《ぬし》がような後生の好人《いいひと》は、可厭《いや》でも極楽。……百味の飲食《おんじき》。蓮《はす》の台《うてな》に居すくまっては、ここに(胃をたたく)もたれて可《よ》うない。ちと、腹ごなしに娑婆《しゃば》へ出て来て、嫁御にかき[#「かき」に傍点]餅でも焼いてやらしゃれ。(目をこすりつつ撫子を見る)さて、ついでに私《わし》の意気になった処を見され、御同行《ごどうぎょう》の婆々どのの丹精じゃ。その婆々どのから、くれぐれも、よろしゅうとな。いやしからば。
村越 (送り出す)是非|近々《ちかぢか》に。
七左 おんでもない。晩にも出直す。や、今度は長尻《ながちり》長左衛門じゃぞ。奥方、農産会に出た、大糸瓜の事ではない、はッはッはッ。(出て行《ゆ》く。)
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村越座に帰る。
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撫子 (鬢《びん》に手をあて、悄《しお》れて伏す)旦那様、済みません。
村越 お互の中にさえ何事もなければ、円髷《まげ》も島田も構うものか。
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この間に七左衛門花道の半ばへ行《ゆ》く、白糸出づ。
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白糸 (行違い、ちょっと小腰)あ、もし、旦那。
七左 ほう、私《わし》かの。
白糸 少々伺いとう存じます。
七左 はいはい。ああ何なりとも聞くが可《よ》い。信濃国東筑摩郡松本中は鵜《う》でござる。
白糸 あの、新聞で、お名前を見て参ったのでございますが、この御近処に、村越さんとおっしゃる方のお住居《すまい》を、貴方、御存じではございませんか。
七左 おお、弥兵衛《やへえ》どの御子息欣弥どの。はあ、新聞に出ておりますか。田鼠化為鶉、馬丁《べっとう》すなわち奉行となる。信濃国東筑摩郡松本中の評判じゃ。唯今《ただいま》、その邸から出て来た処よの。それ、そこに見えるわ、あ、あれじゃ。
白糸 ああ、嬉しい、あの、そして、欣弥さんは御機嫌でございますか。
七左 壮健《たっしゃ》とも、機嫌は今日のお天気でえす。早う行って逢いなさい。
白糸 難有《ありがと》う、飛んだお邪魔を――あ、旦那。
七左 はいはい。
白糸 それから、あの、ちょっと伺いとう存じますが、欣弥さんは、唯今、御家内はお幾人《いくたり》。
七左 二人じゃが、の。
白糸 お二人……お女中と……
七左 はッはッはッ、いずれそのお女中には違いない。はッはッはッ。
白糸 (ふと気にして)どんなお方。
七左 どんなにも、こんなにも、松本中での、あでやかな[#「あでやかな」に傍点]奥方じゃ。
白糸 お家《うち》が違やしませんか。
七左 村越弥兵衛どの御子息欣弥殿。何が違う。
白糸 おや、それじゃ私の生霊《いきりょう》が行ってるのかしら。
七左 ええ……変なことを言う。
白糸 見て下さい、私とは――違いますか。
七左 いや、この方が、床の間に活《い》けた白菊かな。
白糸 え。
七左 まずおいで。(別れつつ)はあてな、別嬪《べっぴん》二人二千石、功名々々。(繻子《しゅす》の洋傘《こうもり》を立てて入る。)
白糸 (二三度|※[#「低」の「にんべん」に代えて「彳」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》して、格子にかかる)御免なさい。
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これよりさき、撫子、膳、風呂敷など台所へ。欣弥は一室に入《い》り、撫子、通盆《かよいぼん》を持って斉《ひと》しく入る。
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その (取次ぐ)はい。
白糸 (じろりと、その髪容《かみかたち》を視《なが》む)村越さんのお住居《すまい》はこちらで?
その はい、どちらから。
白糸 不案内のものですから、お邸が間違いますと失礼です。この村越様は、旦那様のお名は何とおっしゃいますえ。
その はい、お名……
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云いかけて引込《ひっこ》むと、窺《うかが》いいたる、おりくに顔を合せる。
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りく 私、知っててよ。(かわって出づ)いらっしゃいまし。
白糸 おや。(と軽く)
りく あの、お訊《たず》ねになりました、旦那様のお名は、欣弥様でございますの。
白糸 はあ、そしてお年紀《とし》は……お幾つ。
りく あのう、二十八九くらい。
白糸 くらいでは不可《いけ》ませんよ。おんなじお名でおんなじ年くらいでも……の、あの、あるの、とないの、とは大変、大変な違いなんですから。
りく あの、何の、あるのと、ないのと、なんです。
白糸 え
りく 何の、あるのと、ないの、とですの?
白糸 お髯《ひげ》。
りく ほほほ、生やしていらっしゃるわ。
白糸 また、それでも、違うと不可《いけな》い。くらいでなし、ちゃんと、お年紀を伺いとうござんすね。
りく へい。
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けげんな顔して引込むと、また窺いいたる、おその、と一所に笑い出して、二人ばたばたと行って襖際へ……声をきき知る表情にて、衝《つ》と出づる欣弥を見るや、どぎまぎして勝手へ引込む。
村越。つつと出で、そこに、横を向いて立ったる白糸を一目見て、思わず手を取る。不意にハッと驚くを、そのまま引立《ひった》つるがごとくにして座敷に来り、手を離し、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》とすわり、一あしよろめいて柱に凭《よ》る白糸と顔を見合せ、思わずともに、はらはらと泣く。撫子、襖際に出で、ばったり通盆を落し、はっと座ると一所に、白糸もトンと座につき、三人ひとしく会釈す。
欣弥、不器用に慌《あわただ》しく座蒲団《ざぶとん》を直して、下座《しもざ》に来り、無理に白糸を上座《じょうざ》に直し、膝を正し、きちんと手をつく。
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欣弥 一別以来、三年、一千有余日、欣弥、身体、髪膚《はっぷ》、食あり生命あるも、一《いつ》にもって、貴女の御恩……
白糸 (耳にも入《い》らず、撫子を見詰む。)
撫子 (身を辷《すべ》らして、欣弥のうしろにちぢみ、斉《ひと》しく手を支《つ》く。)
白糸 (横を向く。)
欣弥 暑いにつけ、寒いにつけ、雨にも、風にも、一刻もお忘れ申した事はない。しかし何より、お健《すこやか》で……
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白糸、横を向きつつ、一室の膳に目をつける。気をかえ煙草《たばこ》を飲まんとす。火鉢に火なし。
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白糸 火ぐらいおこしておきなさいなね、芝居をしていないでさ。
欣弥 (顔を上げながら、万感胸に交々《こもごも》、口|吃《きっ》し、もの云うあたわず。)
撫子 (慌《あわただ》しく立ち、一室なる火鉢を取って出づ。さしよりて)太夫さん。
白糸 私は……今日は見物さ。
欣弥 おい、お茶を上げないかい。何は、何は、何か、菓子は。
撫子 (立つ。)
白糸 そんなに、何も、お客あつかい。敬して何とかってしなくっても可《よ》うござんす。お茶のお給仕なら私がするわ。
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勝手に行《ゆ》くふり、颯《さっ》と羽織を脱ぎかく。
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欣弥 飛んでもない、まあ、どうか、どうか、それに。
白糸 ああ、女中のお目見得《めみえ》がいけないそうだ。それじゃ、私帰ります。失礼。
欣弥 (笑う)何を云うのだ、帰ると云ってどこへ帰る。あの時、長野の月の橋で、――一生、もう、決して他人ではないと誓ったじゃないか。――此家《ここ》へ来てくれた以上は、門も、屋根も、押入も、畳も、その火鉢も、皆《みんな》、姉《ねえ》さんのものじゃないか。
白糸 おや、姉さんとなりましたよ。誰かに教《おそわ》ったね。だあれかも、またいまのようなうまい口に――欣さん、門も、屋根も押入も……そして、貴女《あなた》は、誰のもの?
欣弥 (無言。)
白糸 失礼!(立つ。)
欣弥 大恩人じゃないか、どうすれば可《い》い。お友さん。
白糸 恩人なんか、真ッ平です。私は女中になりたいの。
欣弥 そんな、そんな無理なことを。
撫子 太夫さん。(間)姉さん、貴女は何か思違いをなすってね。
白糸 ええ、お勝手を働こうと思違いをして来ました。(投げたように)お目見得に、落第か、失礼。
欣弥 ええ、とに
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