りつぜん》として寒さを感《おぼ》えたりしが、やがて拾い取りて月に翳《かざ》しつつ、
「これを証拠に訴えれば手掛かりがあるだろう。そのうちにはまたなんとか都合もできよう。……これは今死ぬのは。……」
この証拠物件を獲《え》たるがために、渠はその死を思い遏《とどま》りて、いちはやく警察署に赴かんと、心変わればいまさら忌まわしきこの汀《みぎわ》を離れて、渠は推し仆《たお》されたりしあたりを過ぎぬ。無念の情は勃然《ぼつぜん》として起これり。繊弱《かよわ》き女子《おんな》の身なりしことの口惜《くちお》しさ! 男子《おとこ》にてあらましかばなど、言い効《がい》もなき意気地《いくじ》なさを憶《おも》い出でて、しばしはその恨めしき地を去るに忍びざりき。
渠は再び草の上に一物《あるもの》を見出だせり。近づきてとくと視れば、浅葱地《あさぎじ》に白く七宝|繋《つな》ぎの洗い晒《ざら》したる浴衣《ゆかた》の片袖《かたそで》にぞありける。
またこれ賊の遺物なるを白糸は暁《さと》りぬ。けだし渠が狼藉《ろうぜき》を禦《ふせ》ぎし折に、引き断《ちぎ》りたる賊の衣《きぬ》の一片なるべし。渠はこれをも拾い取り、出刃を裹《つつ》みて懐中《ふところ》に推し入れたり。
夜はますます闌《た》けて、霄《そら》はいよいよ曇りぬ。湿りたる空気は重く沈みて、柳の葉末も動かざりき。歩むにつれて、足下《あしもと》の叢《くさむら》より池に跋《は》ね込む蛙《かわず》は、礫《つぶて》を打つがごとく水を鳴らせり。
行く行く項《うなじ》を低《た》れて、渠は深くも思い悩みぬ。
「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕《つかま》ろうか。捕ったところで、うまく金子《かね》が戻るだろうか。あぶないものだ。そんなことを期《あて》にしてぐずぐずしているうちには、欣さんが食うに窮《こま》ってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が到《い》かなかった日には、どんなに窮るだろう。はてなあ! 福井の金主のほうは、三百円のうち二百円前借りをしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情《わけ》だとすっかり打ち明けて、ひとつ泣き付いてみようかしらん。だめなことだ、あの老爺《おやじ》だもの。のべつに小癪《こしゃく》に障《さわ》ることばっかり陳《なら》べやがって、もうもうほんとに顔を見るのもいやなんだ。そのくせまた持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、窮った、窮った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何より愁《つら》い! といって才覚のしようもなし。……」
陰々として鐘声の度《わた》るを聞けり。
「もう二時だ。はてなあ!」
白糸は思案に余って、歩むべき力も失せつ。われにもあらで身を靠《もた》せたるは、未央柳《びおうりゅう》の長く垂《た》れたる檜《ひのき》の板塀《いたべい》のもとなりき。
こはこれ、公園地内に六勝亭《ろくしょうてい》と呼べる席貸《せきが》しにて、主翁《あるじ》は富裕の隠居なれば、けっこう数寄《すき》を尽くして、営業のかたわらその老いを楽しむところなり。
白糸が佇《たたず》みたるは、その裏口の枝折《しおり》門の前なるが、いかにして忘れたりけむ、戸を鎖《さ》さでありければ、渠が靠《もた》るるとともに戸はおのずから内に啓《ひら》きて、吸い込むがごとく白糸を庭の内にぞ引き入れたる。
渠はしばらく惘然《ぼうぜん》として佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりを※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》せり。幽寂に造られたる平庭を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮《ねしず》まりたる気勢《けはい》なり。白糸は一歩を進め、二歩を進めて、いつしか「寂然の森《しげり》」を出でて、「井戸囲い」のほとりに抵《いた》りぬ。
このとき渠は始めて心着きて驚けり。かかる深夜に人目を窃《ぬす》みて他の門内に侵入するは賊の挙動《ふるまい》なり。われははからずも賊の挙動をしたるなりけり。
ここに思い到《いた》りて、白糸はいまだかつて念頭に浮かばざりし盗《とう》というなる金策の手段あるを心着きぬ。ついで懐なる兇器に心着きぬ。これ某《なにがし》らがこの手段に用いたりし記念《かたみ》なり。白糸は懐に手を差し入れつつ、頭《かしら》を傾けたり。
良心は疾呼《しっこ》して渠を責めぬ。悪意は踴躍《ゆうやく》して渠を励ませり。渠は疾呼の譴責《けんせき》に遭《あ》いては慚悔《ざんかい》し、また踴躍の教峻を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸の恃《たの》むべからざるを知りて、ついに迭《たが》いに闘《たたか》いたりき。
「道ならないことだ。そんな真似《まね》をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ、……けれども才覚ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、羞汚《はじ》も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗《と》ろう。盗ってそうして死のう死のう!」
かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれを可《ゆる》さざりき。渠の心は激動して、渠の身は波に盪《ゆら》るる小舟《おぶね》のごとく、安んじかねて行きつ、還《もど》りつ、塀ぎわに低徊《ていかい》せり。ややありて渠は鉢前《はちまえ》近く忍び寄りぬ。されどもあえて曲事《くせごと》を行なわんとはせざりしなり。渠《かれ》は再び沈吟せり。
良心に逐《お》われて恐惶《きょうこう》せる盗人は、発覚を予防すべき用意に遑《いとま》あらざりき。渠が塀ぎわに徘徊《はいかい》せしとき、手水口《ちょうずぐち》を啓《ひら》きて、家内の一個《ひとり》は早くすでに白糸の姿を認めしに、渠は鈍《おそ》くも知らざりけり。
鉢前の雨戸は不意に啓きて、人は面《おもて》を露《あら》わせり。白糸あなやと飛び退《すさ》る遑《ひま》もなく、
「偸児《どろぼう》!」と男の声は号《さけ》びぬ。
白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟《とどろ》けり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手《めて》に閃《ひらめ》きて、縁に立てる男の胸をば、柄《つか》も透《とお》れと貫きたり。
戸を犇《ひしめ》かして、男は打ち僵《たお》れぬ。朱《あけ》に染みたるわが手を見つつ、重傷《いたで》に唸《うめ》く声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦《すく》みて、わなわなと顫《ふる》いぬ。
渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞《ふるまい》をなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪《たお》れたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。されども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。
「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」
白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後《うしろ》に、
「あなた、どうなすった?」
と聞こゆるは寝惚《ねぼ》れたる女の声なり。白糸は出刃を隠して、きっとそなたを見遣《みや》りぬ。
灯影《ひかげ》は縁を照らして、跫音《あしおと》は近づけり。白糸はひたと雨戸に身を寄せて、何者か来たると※[#「(虍/助のへん)+見」、第4水準2−88−41]《うかが》いぬ。この家の内儀なるべし。五十ばかりの女は寝衣姿《ねまきすがた》のしどけなく、真鍮《しんちゅう》の手燭《てしょく》を翳《かざ》して、覚めやらぬ眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》かんと面《おもて》を顰《ひそ》めつつ、よたよたと縁を伝いて来たりぬ。死骸《しがい》に近づきて、それとも知らず、
「あなた、そんな所《とこ》に寝て……どうなすっ。……」
燈《あかし》を差し向けて、いまだその血に驚く遑《いとま》あらざるに、
「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁を衝《つ》き付けたり。
内儀は賊の姿を見るより、ペったりと膝《ひざ》を折り敷き、その場に打ち俯《ふ》して、がたがたと慄《ふる》いぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。
「おい、内君《おかみさん》、金を出しな。これさ、金を出せというのに」
俯して答《いら》えなき内儀の項《うなじ》を、出刃にてぺたぺたと拍《たた》けり。内儀は魂魄《たましい》も身に添わず、
「は、は、はい、はい、は、はい」
「さあ、早くしておくれ。たんとは要《い》らないんだ。百円あればいい」
内儀はせつなき呼吸《いき》の下より、
「金子《かね》はあちらにありますから。……」
「あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ」
出刃庖丁は内儀の頬《ほお》を見舞えり。渠はますます恐怖して立つ能《あた》わざりき。
「さあ早くしないかい」
「た、た、た、ただ……いま」
渠は立たんとすれども、その腰は挙《あ》がらざりき。されども渠はなお立たんと焦《あせ》りぬ。腰はいよいよ挙がらず。立たざればついに殺されんと、渠はいとど慌《あわ》てつ、悶《もだ》えつ、辛くも立ち起がりて導けり。二間《ふたま》を隔つる奥に伴いて、内儀は賊の需《もと》むる百円を出だせり。白糸はまずこれを収めて、
「内君、いろいろなことを言ってきのどくだけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿轡《さるぐつわ》を箝《は》めてておくれ」
渠は内儀を縛《いまし》めんとて、その細帯を解かんとせり。ほとんど人心地《ひとごこち》あらざるまでに恐怖したりし主婦《あるじ》は、このときようよう渠の害心あらざるを知るより、いくぶんか心落ちいつつ、はじめて賊の姿をば認め得たりしなり。こはそもいかに! 賊は暴《あら》くれたる大の男《おのこ》にはあらで、軆度《とりなり》優しき女子《おんな》ならんとは、渠は今その正体を見て、与《くみ》しやすしと思えば、
「偸児《どろぼう》!」と呼び懸《か》けて白糸に飛び蒐《かか》りつ。
自糸は不意を撃たれて驚きしが、すかさず庖丁の柄《え》を返して、力任せに渠の頭を撃てり。渠は屈せず、賊の懐に手を捻《ね》じ込みて、かの百円を奪い返さんとせり。白糸はその手に咬《か》み着き、片手には庖丁振り抗《あ》げて、再び柄をもて渠の脾腹《ひばら》を吃《くら》わしぬ。
「偸児! 人殺し!」と地蹈鞴《じだたら》を踏みて、内儀はなお暴《あら》らかに、なおけたたましく、
「人殺し! 人殺しだ!」と血声を絞りぬ。
これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀の吭《のんど》を目懸《めが》けてただ一突きと突きたりしに、覘《ねら》いを外《はず》して肩頭《かたさき》を刎《は》ね斫《き》りたり。
内儀は白糸の懐に出刃を裹《つつ》みし片袖を撈《さぐ》り得《あ》てて、引っ掴《つか》みたるまま遁《のが》れんとするを、畳み懸けてその頭《かしら》に斫《き》り着けたり。渠はますます狂いて再び喚《わめ》かんとしたりしかば、白糸は触《あた》るを幸いめった斫《ぎ》りにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐《ちしお》を見ざりき。一坪の畳は全く朱《あけ》に染みて、あるいは散り、あるいは迸《ほとばし》り、あるいはぽたぽたと滴《したた》りたる、その痕《あと》は八畳の一間にあまねく、行潦《にわたずみ》のごとき唐紅《からくれない》の中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、拳《こぶし》を握り、歯を噛《く》い緊《し》めてのけざまに顛覆《うちかえ》りたるが、血塗《ちまぶ》れの額越《ひたいご》しに、半ば閉じたる眼《まなこ》を睨《にら》むがごとく凝《す》えて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。
白糸は生まれてより、いまだかかる最期《さいご》の愴惻《あさましき》を見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐!
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング