しからざるなり。村越欣弥は渠が然諾を信じて東京に遊学せり。高岡に住めるその母は、箸《はし》を控えて渠が饋餉《きしょう》を待てり。白糸は月々渠らを扶持すべき責任ある世帯持ちの身となれり。
従来の滝の白糸は、まさにその放逸を縛し、その奇骨を挫《ひし》ぎて、世話女房のお友とならざるを得ざるべきなり。渠はついにその責任のために石を巻き、鉄を捩《ね》じ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。その行ないにおいてはなおかつ滝の白糸たる活気をば有《たも》ちつつ、その精神は全く村越友として経営苦労しつ。その間は実に三年《みとせ》の長きに亙《わた》れり。
あるいは富山《とやま》に赴《い》き、高岡に買われ、はた大聖寺《だいしょうじ》福井に行き、遠くは故郷の新潟に興行し、身を厭《いと》わず八方に稼《かせ》ぎ廻《まわ》りて、幸いにいずくも外《はず》さざりければ、あるいは血をも濺《そそ》がざるべからざる至重《しちょう》の責任も、その収入によりて難なく果たされき。
されども見世物の類《たぐい》は春夏の二季を黄金期とせり。秋は漸《ようや》く寂しく、冬は霜枯れの哀れむべきを免れざるなり。いわんや北国の雪《せつ》世界はほとんど一年の三分の一を白き物の中に蟄居《ちっきょ》せざるべからざるや。ことに時候を論ぜざる見世物と異なりて、渠の演芸はおのずから夏炉冬扇のきらいあり。その喝采《やんや》は全く暑中にありて、冬季は坐食す。
よし渠は糊口《ここう》に窮せざるも、月々十数円の工面《くめん》は尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。渠はいかにしてかなき袖《そで》を振りける? 魚は木に縁《よ》りて求むべからず、渠は他日の興行を質入れして前借りしたりしなり。
その一年、その二年は、とにもかくにもかくのごとき算段によりて過ごしぬ。その三年ののちは、さすがに八方|塞《ふさ》がりて、融通の道も絶えなむとせり。
翌年の初夏金沢の招魂祭を当て込みて、白糸の水芸は興行せられたりき。渠は例の美しき姿と妙なる技《わざ》とをもって、希有《けう》の人気を取りたりしかば、即座に越前福井なるなにがしという金主|附《つ》きて、金沢を打ち揚げしだい、二箇月間三百円にて雇わんとの相談は調《ととの》いき。
白糸は諸方に負債ある旨を打ち明けて、その三分の二を前借りし、不義理なる借金を払いて、手もとに百余円を剰《あま》してけり。これをもってせば欣弥|母子《おやこ》が半年の扶持に足るべしとて、渠は顰《ひそ》みたりし愁眉《しゅうび》を開けり。
されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。
渠の希望《のぞみ》はすでに手の達《とど》くばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月を支《ささ》うるを得ば足れり。無頓着《むとんじゃく》なる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとは為《な》さざりき。その約に負《そむ》かざらんことを虞《おそ》るる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるに専《もっぱら》なりき。
かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行を※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《お》わりたりしは、一時に垂《なんな》んとするころなりき。白昼《ひるま》を欺くばかりなりし公園内の万燈《まんどう》は全く消えて、雨催《あまもよい》の天《そら》に月はあれども、四面|※[#「さんずい+翁」、第4水準2−79−5]※[#「さんずい+孛」、49−15]《おうぼつ》として煙《けぶり》の布《し》くがごとく、淡墨《うすずみ》を流せる森のかなたに、たちまち跫音《あしおと》の響きて、がやがやと罵《ののし》る声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れの迹《あと》に残りて語合《かたら》う女あり。
「ちょいと、お隣の長松《ちょうまつ》さんや、明日《あした》はどこへ行きなさる?」
年増《としま》の抱《いだ》ける猿《さる》の頭を撫《な》でて、かく訊《たず》ねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首《ろくろくび》の因果娘なり。
「はい、明日は福井まで参じます」
年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛相よく、
「おおおお、それはまあ遠い所へ」
「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公《ちょんこ》のほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」
渠は抱《いだ》きし猿を放ち遣《や》りぬ。
折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被《ほおかぶ》りせる男の顔は赤く顕《あら》われぬ。黒き影法師も両三箇《ふたつみつ》そのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視《すかしみ》て、
「おや、出刃打ちの連中があすこに憩《やす》んでいなさるようだ」
「どれどれ」と見向く年増の背後《うしろ》に声ありて、
「おい、そろそろ出掛けようぜ」
旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ち住《ど》まりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、
「そんなら、姉《ねえ》さん」
「参りましょうかね」
両箇《ふたり》の女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇《だいじゃ》を籠《かご》に入れて荷《にな》う者と、馬に跨《またが》りて行く曲馬芝居の座頭《ざがしら》とを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹《らくえき》として森蔭《もりかげ》に列を成せるその状《さま》は、げに百鬼夜行一幅の活図《かっと》なり。
ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃《しんすい》として月色ますます昏《くら》く、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、※[#「谷+含」、第4水準2−88−88]谺《こだま》に響き、水に鳴りて、魂消《たまぎ》る一声《ひとこえ》、
「あれえ!」
五
水は沈濁して油のごとき霞《かすみ》が池《いけ》の汀《みぎわ》に、生死も分かず仆《たお》れたる婦人あり。四|肢《し》を弛《ゆる》めて地《つち》に領伏《ひれふ》し、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕《まくら》を返して、がっくりと頭《かしら》を俛《た》れ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起《あ》がりて、※[#「足へん+禹」、第3水準1−92−38]《よろめ》く体《たい》をかたわらなる露根松《ねあがりまつ》に辛《から》くも支《ささ》えたり。
その浴衣《ゆかた》は所々引き裂け、帯は半ば解《ほど》けて脛《はぎ》を露《あら》わし、高島田は面影を留《とど》めぬまでに打ち頽《くず》れたり。こはこれ、盗難に遇《あ》えりし滝の白糸が姿なり。
渠はこの夜の演芸を※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《お》わりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫《まどろ》みたりき。一座の連中は早くも荷物を取|纏《まと》めて、いざ引き払わんと、太夫《たゆう》の夢を喚《よ》びたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けと現《うつつ》に言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常《へいぜい》を識《し》りければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。
程《ほど》経て白糸は目覚《めざ》ましぬ。この空小屋《あきごや》のうちに仮寝《うたたね》せし渠の懐《ふところ》には、欣弥が半年の学資を蔵《おさ》めたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静《しずか》なるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿に赴《おもむ》かんとて、そこまで来たりけるに、ばらばらと小蔭より躍《おど》り出ずる人数《にんず》あり。
みなこれ屈竟《くっきょう》の大男《おおおのこ》、いずれも手拭《てぬぐ》いに面《おもて》を覆《つつ》みたるが五人ばかり、手に手に研《と》ぎ澄ましたる出刃庖丁《でばぼうちょう》を提《ひさ》げて、白糸を追っ取り巻きぬ。
心剛《こころたしか》なる女なれども、渠はさすがに驚きて佇《たたず》めり。狼藉者《ろうぜきもの》の一個《ひとり》は濁声《だみごえ》を潜めて、
「おう、姉《ねえ》さん、懐中《ふところ》のものを出しねえ」
「じたばたすると、これだよ、これだよ」
かく言いつつ他の一個《ひとり》はその庖丁を白糸の前に閃《ひらめ》かせば、四|挺《ちょう》の出刃もいっせいに晃《きらめ》きて、女の眼《め》を脅かせり。
白糸はすでにその身は釜中《ふちゅう》の魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きては遁《のが》るること難《かた》し。
渠はその平生《へいぜい》においてかつ百金を吝《お》しまざるなり。されども今夜|懐《ふところ》にせる百金は、尋常一様の千万金に直《あたい》するものにして、渠が半身の精血とも謂《い》っつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれを獲《う》るの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放|豁達《かったつ》の女丈夫も途方に暮れたりき。
「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」
白糸は死守せんものと決心せり。渠の脣《くちびる》は黒くなりぬ。渠の声はいたく震いぬ。
「これは与《や》られないよ」
「与《く》れなけりゃ、ふんだくるばかりだ」
「遣《や》っつけろ、遣っつけろ!」
その声を聞くとひとしく、白糸は背後《うしろ》より組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸も挫《ひし》ぐるばかりの翼緊《はがいじ》めに遭《あ》えり。たちまち暴《あら》くれたる四隻《よつ》の手は、乱雑に渠の帯の間と内懐とを撈《かきさが》せり。
「あれえ!」と叫びて援《すく》いを求めたりしは、このときの血声なりき。
「あった、あった」と一個《ひとり》の賊は呼びぬ。
「あったか、あったか」と両三人の声は※[#「應」の「心」に代えて「言」、53−13]《こた》えぬ。
白糸は猿轡《さるぐつわ》を吃《はま》されて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身を悶《もだ》えて、跋《は》ね覆《か》えさんとしたりしなり。にわかに渠らの力は弛《ゆる》みぬ。虚《すか》さず白糸は起き復《かえ》るところを、はたと※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]仆《けたお》されたり。賊はその隙《ひま》に逃げ失《う》せて行くえを知らず。
惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついに還《かえ》らざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、焚《も》ゆるがごとく、万感の心《むね》を衝《つ》くに任せて、無念|已《や》む方《かた》なき松の下蔭《したかげ》に立ち尽くして、夜の更《ふ》くるをも知らざりき。
「ああ、しかたがない、何も約束だと断念《あきら》めるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
渠はひしとわが身を抱《いだ》きて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々《ようよう》たる霞が池は、霜の置きたるように微黯《ほのぐら》き月影を宿せり。
白糸の眼色《めざし》はその精神の全力を鍾《あつ》めたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水の面《おも》を屹《き》と視《み》たり。
「ええ、もうなんともかとも謂《い》えないいやな心地《こころもち》だ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」
渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛《ばんこく》の水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉《よろよろ》と汀《みぎわ》に寄れば、足下《あしもと》に物ありて晃《きらめ》きぬ。思わず渠の目はこれに住《とど》まりぬ。出刃庖丁なり!
これ悪漢が持てりし兇器《きょうき》なるが、渠らは白糸を手籠《てご》めにせしとき、かれこれ悶着《もんちゃく》の間に取り遺《おと》せしを、忘れて捨て行きたるなり。
白糸はたちまち慄然《
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