かかるあさましき最期! こはこれ何者の為業《しわざ》なるぞ。ここに立てるわが身のなせし業なり。われながら恐ろしきわが身かな、と白糸は念《おも》えり。渠の心は再び得堪《えた》うまじく激動して、その身のいまや殺されんとするを免《のが》れんよりも、なお幾層の危うき、恐ろしき想《おも》いして、一秒もここにあるにあられず、出刃を投げ棄《す》つるより早く、あとをも見ずしていっさんに走り出ずれば、心急《こころせ》くまま手水口の縁に横たわる躯《むくろ》のひややかなる脚《あし》に跌《つまず》きて、ずでんどうと庭前《にわさき》に転《まろ》び墜《お》ちぬ。渠は男の甦《よみがえ》りたるかと想いて、心も消え消えに枝折門まで走れり。
風やや起こりて庭の木末《こずえ》を鳴らし、雨はぽっつりと白糸の面《おもて》を打てり。
六
高岡|石動《いするぎ》間の乗り合い馬車は今ぞ立野《たての》より福岡までの途中にありて走れる。乗客の一個《ひとり》は煙草火《たばこび》を乞《か》りし人に向かいて、雑談の口を開きぬ。
「あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、御同様に共進会でございますか」
「さようさ、共進会も見ようと思いますが、ほかに少し。……」
渠《かれ》は話好きと覚しく、
「へへ、何か公務《おつとめむき》の御用で」
その人は髭《ひげ》を貯《たくわ》えて、洋服を着けたるより、渠《かれ》はかく言いしなるべし。官吏?は吸い窮《つ》めたる巻煙草を車の外に投げ棄《す》て、次いで忙《いそが》わしく唾《つば》吐きぬ。
「実は明日《あす》か、明後日《あさって》あたり開くはずの公判を聴《き》こうと思いましてね」
「へへえ、なるほど、へえ」
渠はその公判のなんたるを知らざるがごとし。かたわらにいたる旅商人《たびあきゅうど》は、卒然|我《われ》は顔《がお》に喙《くちばし》を容《い》れたり。
「ああ、なんでございますか。この夏公園で人殺しをした強盗の一件?」
髭ある人は眼《まなこ》を「我は顔」に転じて、
「そう。知っておいでですか」
「話には聞いておりますが、詳細事《くわしいこと》は存じませんで。じゃあの賊は逮捕《つかま》りましてすか」
話を奪われたりし前の男も、思い中《あた》る節やありけん、
「あ、あ、あ、ひとしきりそんな風説《うわさ》がございましたっけ。有福《かねもち》の夫婦を斬《き》り殺したとかいう……その裁判があるのでございますか」
髭は再びこなたを振り向きて、
「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」
渠は話児《はなし》を釣るべき器械なる、渠が特有の「へへえ」と「なるほど」とを用いて、しきりにその顛末《てんまつ》を聞かんとせり。乙者《おつ》も劣らず水を向けたりき。髭ある人の舌本《ぜっぽん》はようやく軟《やわら》ぎぬ。
「賊はじきにその晩|捕《や》られた」
「こわいものだ!」と甲者《こう》は身を反《そ》らして頭《かしら》を掉《ふ》りぬ。
「あの、それ、南京《ナンキン》出刃打ちという見世物な、あの連中の仕事だというのだがね」
乙者《おつ》は直ちにこれに応ぜり。
「南京出刃打ち? いかさま、見たことがございました。あいつらが? ふうむ。ずいぶん遣《や》りかねますまいよ」
「その晩橋場の交番の前を怪しい風体のやつが通ったので、巡査が咎《とが》めるとこそこそ遁《に》げ出したから、こいつ胡散《うさん》だと引っ捉《とら》えて見ると、着ている浴衣《ゆかた》の片袖《かたそで》がない」
談ここに到《いた》りて、甲と乙とは、思わず同音に嗟《うめ》きぬ。乗り合いは弁者の顔を※[#「(虍/助のへん)+見」、第4水準2−88−41]《うかが》いて、その後段を渇望せり。
甲者は重ねて感嘆の声を発して、
「おもしろい! なるほど。浴衣の片袖がない! 天も……なんとやらで、なんとかして漏らさず……ですな」
弁者はこの訛言《かたごと》をおかしがりて、
「天網恢々《てんもうかいかい》疎にして漏らさずかい」
甲者は聞くより手を抗《あ》げて、
「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」
乗り合いの過半《おおく》はこの恢々に笑えり。
「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩兼六園の席貸しな、六勝亭、あれの主翁《あるじ》は桐田《きりた》という金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業《しわざ》だか、いや、それは、実に残酷に害《や》られたというね。亭主は鳩尾《みぞおち》のところを突き洞《とお》される、女房は頭部《あたま》に三箇所、肩に一箇所、左の乳の下を刳《えぐ》られて、僵《たお》れていたその手に、男の片袖を掴《つか》んでいたのだ」
車中声なく、人は固唾《かたず》を嚥《の》みて、その心を寒うせり。まさにこれ弁者得意の時。
「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸《しがい》のかたわらに出刃庖丁《でばぼうちょう》が捨ててあった。柄《え》の所に片仮名《かたかな》のテの字の焼き印のある、これを調べると、出刃打ちの用《つか》っていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に差違《ちがい》ないので、まず犯罪人はこいつとだれも目を着けたさ」
旅商人は膝《ひざ》を進めつ。
「へえ、それじゃそいつじゃないんでございますかい」
弁者はたちまち手を抗《あ》げてこれを抑《おさ》えぬ。
「まあお聞きなさい。ところで出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、けっして人殺しをした覚えはございません。奪《と》りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門《かど》は通過《とおり》もしませんっ」
「はて、ねえ」と甲者は眉《まゆ》を動かして、弁者を凝視《みつ》めたり、乙者は黙して考えぬ。ますますその後段を渇望せる乗り合いは、順繰りに席を進めて、弁者に近づかんとせり。渠はそのとき巻莨《まきたばこ》を取り出だして、脣《くちびる》に湿しつつ、
「話はこれからだ」
左側《さそく》の席の前端《まえはし》に並びたる、威儀ある紳士とその老母とは、顔を見合わせて迭《たが》いに色を動かせり。渠は質素なる黒の紋着きの羽織に、節仙台《ふしせんだい》の袴《はかま》を穿《は》きて、その髭は弁者より麗しきものなりき。渠は紳士というべき服装《いでたち》にはあらざるなり。されどもその相貌《そうぼう》とその髭とは、多く得《う》べからざる紳士の風采《ふうさい》を備えたり。
弁者は仔細《しさい》らしく煙を吹きて、
「滝の白糸というのはご存じでしょうな」
乙者は頷《うなず》き頷き、
「知っとります段か、富山で見ました大評判の美艶《うつくしい》ので」
「さよう。そこでそのころ福井の方で興行中のかの女を喚び出して対審に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪《と》るときに、おおかた断《ちぎ》られたのであろうが、自分は知らずに遁《に》げたので、出刃庖丁とてもそのとおり、女を脅《おど》すために持っていたのを、慌《あわ》てて忘れて来たのであるから、たといその二品が桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理窟《りくつ》には合わんけれど、やつはまずそう言い張るのだ。そこで女が、そのとおりだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、ほかにあるとなるのだ」
甲者は頬杖《ほおづえ》※[#「てへん+主」、第3水準1−84−73]《つ》きたりし面《おもて》を外《はず》して、弁者の前に差し寄せつつ、
「へえへえ、そうして女はなんと申しました」
「ぜひおまえさんに逢いたいと言ったね」
思いも寄らぬ弁者の好謔《こうぎゃく》は、大いに一場の笑いを博せり。渠もやむなく打ち笑いぬ。
「ところが金子《かね》を奪られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも奪ったという。偸児《どろぼう》のほうから奪ったというのに、奪られたほうでは奪られないと言い張る。なんだか大岡《おおおか》政談にでもありそうな話さ」
「これにはだいぶ事情《わけ》がありそうです」
乙者は首を捻《ひね》りつつ腕を拱《こまぬ》けり。例の「なるほど」は、談《はなし》のますます佳境に入るを楽しめる気色《けしき》にて、
「なるほど、これだから裁判はむずかしい! へえ、それからどう致《いた》しました」
傍聴者は声を斂《おさ》めていよいよ耳を傾けぬ。威儀ある紳士とその老母とは最も粛然として死黙せり。
弁者はなおも語《ことば》を継ぎぬ。
「実にこれは水掛け論さ。しかしとどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでからこの公判までにはだいぶ間《ひま》があったのだ。この間《あいだ》に出刃打ちの弁護士は非常な苦心で、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、一番腕を揮《ふる》って、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手薬煉《てぐすね》を引いているそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」
甲者は例の「なるほど」を言わずして、不平の色を作《な》せり。
「へえ、そのなんでございますか、旦那《だんな》、その弁護士というやつは出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女に誣《なす》ろうという姦計《たくみ》なんでございますか」
弁者は渠の没分暁《ぼつぶんぎょう》を笑いて、
「何も姦計《たくみ》だの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」
甲者はますます不平に堪えざりき。渠は弁者を睨《げい》して、
「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つてえことがあるもんですか。敵手《あいて》は女じゃありませんか。かわいそうに。私なら弁護を頼まれたってなんだって管《かま》やしません。おまえが悪い、ありていに白状しな、と出刃打ちの野郎を極《き》め付けてやりまさあ」
渠の鼻息はすこぶる暴《あら》らかなりき。
「そんな弁護士をだれが頼むものか」
と弁者は仰ぎて笑えり。乗り合いは、威儀ある紳士とその老母を除きて、ことごとく大笑せり。笑い寝《や》むころ馬車は石動に着きぬ。車を下らんとて弁者は席を起《た》てり。甲と乙とは渠に向かいて慇懃《いんぎん》に一揖《いちゆう》して、
「おかげでおもしろうございました」
「どうも旦那《だんな》ありがとう存じました」
弁者は得々として、
「おまえさんがたも間《ひま》があったら、公判を行ってごらんなさい」
「こりゃ芝居よりおもしろいでございましょう」
乗客は忙々《いそがわしく》下車して、思い思いに別れぬ。最後に威儀ある紳士はその母の手を執りて扶《たす》け下ろしつつ、
「あぶのうございますよ。はい、これからは腕車《くるま》でございます」
渠らの入りたる建場の茶屋の入り口に、馬車会社の老いたる役員は佇《たたず》めり。渠は何気なく紳士の顔を見たりしが、にわかにわれを忘れてその瞳《ひとみ》を凝らせり。
たちまち進み来たれる紳士は帽を脱して、ボタンの二所|失《と》れたる茶羅紗《ちゃらしゃ》のチョッキに、水晶の小印《こいん》を垂下《ぶらさ》げたるニッケル鍍《めっき》の※[#「金+樔のつくり」、第4水準2−91−32]《くさり》を繋《か》けて、柱に靠《もた》れたる役員の前に頭《かしら》を下げぬ。
「その後は御機嫌《ごきげん》よろしゅう。あいかわらずお達者で……」
役員は狼狽《ろうばい》して身を正し、奪うがごとくその味噌漉《みそこ》し帽子を脱げり。
「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきから肖《に》ているとは思ったけれど、えらくりっぱになったもんだから。……しかしおまえさんも無事で、そうしてまありっぱになんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして勉強してきたのは、法律かい。法律はいいね。おまえさんは好きだった。好きこそものの上手《じょうず》なりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に……うむ、検事代理というのかい」
老いたる役員はわが子の出世を看《み》るがごとく懽《よろこ》べり
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