。
御者は書巻を腹掛けの衣兜《かくし》に収め、革紐《かわひも》を附《つ》けたる竹根の鞭《むち》を執《と》りて、徐《しず》かに手綱を捌《さば》きつつ身構うるとき、一|輛《りょう》の人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらを掠《かす》めて、瞬《またた》く間《ひま》に一点の黒影となり畢《おわ》んぬ。
美人はこれを望みて、
「おい小僧さん、腕車《くるま》よりおそいじゃないか」
奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面を抗《あ》げ、かすかになれる車の影を見送りて、
「吉公、てめえまた腕車より疾《はえ》えといったな」
奴は愛嬌《あいきょう》よく頭を掻《か》きて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
御者は黙して頷《うなず》きぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高く嘶《いなな》きて一文字に跳《は》ね出《い》だせり。不意を吃《くら》いたる乗り合いは、座に堪《たま》らずしてほとんど転《まろ》び墜《お》ちなんとせり。奔馬《ほんば》は中《ちゅう》を駈《か》けて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻《あが》きを緩《ゆる》め、渠に先を越させぬまでに徐々として
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