して一箇《ひとり》の人影《じんえい》を見ず、天高く、露気《ろき》ひややかに、月のみぞひとり澄めりける。
 熱鬧《ねっとう》を極《きわ》めたりし露店はことごとく形を斂《おさ》めて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩《も》るる燈火《ともしび》は、かすかに宵のほどの名残《なごり》を留《とど》めつ。河《かわ》は長く流れて、向山《むこうやま》の松風静かに度《わた》る処《ところ》、天神橋の欄干に靠《もた》れて、うとうとと交睫《まどろ》む漢子《おのこ》あり。
 渠《かれ》は山に倚《よ》り、水に臨み、清風を担《にな》い、明月を戴《いただ》き、了然たる一身、蕭然《しょうぜん》たる四境、自然の清福を占領して、いと心地《ここち》よげに見えたりき。
 折から磧の小屋より顕《あら》われたる婀娜者《あだもの》あり。紺絞りの首抜きの浴衣《ゆかた》を着て、赤|毛布《ゲット》を引き絡《まと》い、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄《げた》の爪頭《つまさき》に戞々《かつかつ》と礫《こいし》を蹴遣《けや》りつつ、流れに沿いて逍遥《さまよ》いたりしが、瑠璃《るり》色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、
「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」
 川風はさっと渠の鬢《びん》を吹き乱せり。
「ああ、薄ら寒くなってきた」
 しかと毛布《ケット》を絡《まと》いて、渠はあたりを※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しぬ。
「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色《けしき》なもんだ」
 渠は再び徐々として歩を移せり。
 この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上|旅籠《はたご》を取らずして、小屋を家とせるもの寡《すく》なからず。白糸も然《さ》なり。
 やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄《あずまげた》の音は天地の寂黙《せきもく》を破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛《おかし》さに、なおしいて響かせつつ、橋の央《なかば》近く来たれるとき、やにわに左手《ゆんで》を抗《あ》げてその高髷《たかまげ》を攫《つか》み、
「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」
 暴々《あらあら》しく引き解《ほど》きて、手早くぐるぐる巻きにせり。
「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
 かくて白糸は水を聴《き》き、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾《ちんきん》として露下月前に快眠せる漢子《おのこ》は、数歩のうちにありて※[#「鼻+句」、第4水準2−94−72]《いびき》を立てつ。
「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」
 囃子方《はやしかた》に新という者あり。宵より出《い》でていまだ小屋に還《かえ》らざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を※[#「(虍/助のへん)+見」、第4水準2−88−41]《のぞ》きたり。
 新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌《そうぼう》はかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝《まさ》ること千の新なるべき異常の面魂《つらだましい》なりき。
 その眉《まゆ》は長くこまやかに、睡《ねむ》れる眸子《まなじり》も凛如《りんじょ》として、正しく結びたる脣《くちびる》は、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽《しゅんそう》なるを語れり。漆のごとき髪はやや生《お》いて、広き額《ひたい》に垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦《そよ》げり。
 つくづく視《なが》めたりし白糸はたちまち色を作《な》して叫びぬ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
 欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者《ぎょしゃ》なり。
「どうして今時分こんなところにねえ」
 渠は跫音《あしおと》を忍びて、再び男に寄り添いつつ、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
 恍惚《こうこつ》として瞳《ひとみ》を凝らしたりしが、にわかにおのれが絡《まと》いし毛布《ケット》を脱ぎて被《き》せ懸《か》けたれども、馭者は夢にも知らで熟睡《うまいね》せり。
 白糸は欄干に腰を憩《やす》めて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、
「ええひどい蚊だ」膝《ひざ》のあたりをはたと拊《う》てり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚《めさ》まして、叭《あくび》まじりに、
「ああ、寝た。もう何時《なんどき》か知らん」
 思い寄らざりしわがかたわらに媚《なま》めける声ありて、
「もうかれこれ一時ですよ」
 馭者は愕然《がくぜん》として顧
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