みれば、わが肩に見覚えぬ毛布《ケット》ありて、深夜の寒を護《まも》れり。
「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」
 白糸は微笑《えみ》を含みて、呆《あき》れたる馭者の面《おもて》を視《み》つつ、
「夜露に打たれると体《からだ》の毒ですよ」
 馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌《ごきげん》よう」
 いよいよ呆《あき》れたる馭者は少しく身を退《すさ》りて、仮初《かりそめ》ながら、狐狸変化《こりへんげ》のものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺《なが》めたる渠の眼色《めざし》は、顰《ひそ》める眉の下より異彩を放てり。
「どなたでしたか、いっこう存じません」
白糸は片頬笑《かたほえ》みて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と馭者は首《こうべ》を傾けたり。
「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。
 馭者はいたく驚けり。月下の美人|生面《せいめん》にしてわが名を識《し》る。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸《こり》の類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。
「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いい所《とこ》で!」
 袖《そで》を掩《おお》いて白糸は嫣然《えんぜん》一笑せり。
 馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首《こうべ》を正して言えり。
「抱いた記憶《おぼえ》はないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走《かけっくら》をして、石動《いするぎ》手前からおまえさんに抱かれて、馬上《うま》の合い乗りをした女さ」
「おお! そうだ」横手《よこで》を拍《う》ちて、馭者は大声《たいせい》を発せり、白糸はその声に驚かされて、
「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
 馭者は脣辺《しんぺん》に微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。
「でも言われるまで憶《おも》い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上《うま》の合い乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あられてたまるものか」
 二人は相見て笑いぬ。ときに数杵《すうしょ》の鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。
 白糸はあらためて馭者に向かい、
「おまえさん、金沢へは何日《いつ》、どうしてお出でなすったの?」
 四顧寥廓《しこりょうかく》として、ただ山水と明月とあるのみ。※[#「風にょう+繆のつくり」、第4水準2−92−40]戻《りょうれい》たる天風《てんぷう》はおもむろに馭者の毛布《ケット》を飄《ひるがえ》せり。
「実はあっちを浪人してね……」
「おやまあ、どうして?」
「これも君ゆえさ」と笑えば、
「御冗談もんだよ」と白糸は流眄《ながしめ》に見遣《みや》りぬ。
「いや、それはともかくも、話説《はなし》をせんけりゃ解《わか》らん」
 馭者は懐裡《ふところ》を捜《さぐ》りて、油紙の蒲簀莨入《かますたばこい》れを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発《ひら》かんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃《はた》くを待ちて、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
 馭者は言下《ごんか》に莨入れとマッチとを手渡して、
「煙管が壅《つま》ってます」
「いいえ、結構」
 白糸は一吃《いっきつ》を試みぬ。はたしてその言《ことば》のごとく、煙管は不快《こころわろ》き脂《やに》の音のみして、煙《けむり》の通うこと縷《いとすじ》よりわずかなり。
「なるほどこれは壅《つま》ってる」
「それで吸うにはよっぽど力が要《い》るのだ」
「ばかにしないねえ」
 美人は紙縷《こより》を撚《ひね》りて、煙管を通し、溝泥《どぶどろ》のごとき脂に面《おもて》を皺《しわ》めて、
「こら! 御覧な、無性《ぶしょう》だねえ。おまえさん寡夫《やもめ》かい」
「もちろん」
「おや、もちろんとは御挨拶《あいさつ》だ。でも、情婦《いろ》の一人や半分《はんぶん》はありましょう」
「ばかな!」と馭者は一喝《いっかつ》せり。
「じゃないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
 渠はこの問答を忌まわしげに空嘯《そらうそぶ》きぬ。
「おまえさんの壮年《とし》で、独身《ひとりみ》で、情婦がないなんて、ほんとに男子《おとこ》の恥辱《はじ》だよ。私が似合わしいの
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